伊丹十三賞 ― 小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録

第14回「伊丹十三賞」受賞記念
小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録(5)

日 程:2023年3月6日(月)17時30分~19時
会 場:伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:小池一子氏(第14回伊丹十三賞受賞者/クリエイティブ・ディレクター)
    佐村憲一氏(聞き手/グラフィック・デザイナー)
ご案内:宮本信子館長

佐村 そのあと、小池さんは「佐賀町(さがちょう/東京都江東区)エキジビット・スペース」のギャラリーで、今度はアートのほうに“オルタナティブ”な仕掛けをしたと私は思っているんです。
今までの、世の中にある美術館とかギャラリーとかの考えではない、“新しい空間”といいますか発表の場を、小池さんがなさってきたと思いますが、その辺りの話をちょっと。

講演会の様子

小池 そうですね、今までの話の中でも関係があるところがいくつかあるんですけれど——

書いたり、編集したり、デザインの仕事に関わったりしていく中で、やっぱり「海外でどんなことが起きているか」っていうことが私の中で大きくなっていきました。
そこで思ったのが、私はビジュアルな仕事に関わることは好きなんだけど——そしてデザインの中ですばらしい出会いが生まれて楽しんでいるんだけれど、ビジュアル・アートの中での“現代の創造”というものを考えたら、現代美術というものがとても大事なんじゃないかっていうふうにずっと思っていたんです。
それで、1968年にパリで起きた大きなデモンストレーションや五月革命というのがひとつの時代を作ったと思いますが、そのあたりで世界が変わっていって。

私は英語しかできないからロンドンに行くことが多かったんです。
親たちは「イギリスに行くんだったらこれぐらいのマナーがなきゃだめ」と言い出すもので、友達はみんなそういうことで困っていたんですけど、うちはもうのんきな家だったからあまりそういう縛りはなくて、それでも、いわゆる“英国的なるもの”とか“ヨーロッパ的なるもの”というものへの、ある種の気構えはありました。

でも、行った先ではビートルズの前に大きな演劇運動があった。怒れる若者たちの、劇場改革があって。
だから、そういうロンドンの町で出ているフリーペーパーとかなんかは、私が知っているイギリス文化では全然ない、すごく生き生きとした新しいものでした。その中でたくさん、ミニスカートとかファッションの変化が起きているんです。
それで、「そうか、これはもう一つのイギリスで、我々が教わってきたものと全然違うじゃない」と思っている中で、“オルタナティブ”という考え方——今までに否定されたり尊重されたりしてきた考え方の他に、「もう一つ、こういう方法があるよ」という意味でのオルタナティブですね。それを感じとっていたんです。

ビジュアルな表現の中で、じゃあ私は、もし何か場を持つとしたらどうするのか。日本でギャラリーをするといっても、銀座のギャラリーなんて、エスタブリッシュされた人だけを扱っていたんです。若い人に空間を貸してお金を取るって……これはもう、海外じゃジョークみたいな話だな、と思うような経験もいくつかしていたんですね。だって若いアーティストは推し出してあげなきゃ!

私はもしビジュアル・アートで現代美術をやるとなったら、美術館に勤めるのか、ギャラリーをするのか——ギャラリーの考え方は今はもうずいぶん変わっていますが、その時は私も、いわゆる画商の世界というのは全く分からなかった。
美術館でもない、ギャラリーでもないといえば、「もうひとつ何か自分で作るしかない」と、“オルタナティブ・スペース”というものの研究をしたんです。

ニューヨーク市の水道局担当だった女性でアラナ・ハイスという面白い人がいて、ブルックリンにあった空いた小学校を「文化の場に」というのをその人が急に思い立って、パブリックスクール(Public School)——頭文字をとってPS1というのを作ったんです。私がもやもやっと何かを始めようかと思っていたときにPS1の創始者に会えたっていうのも、すごい幸運なんですけれど。
「そういうのはね、“オルタナティブな場所を作る”っていう考え方なのよ」っていうのを、彼女の言葉ではっきり聞いたんです。美術館でもない、商業ギャラリーでもない、っていうのかな、そういう場所。

だって、芸術の価値っていうのは見つける人のものだし、それをどう育てていくかっていう仕事の連続であるし。そういう意味ではオルタナティブ・スペースっていうこともあり得るかなぁと思って。

その時には、私の頭文字をとったキチンの事務所では、デザインのスタジオを持って、西武百貨店系の印刷物や広告の仕事をやっていたわけですけれども、やっぱり日本の美術館では、若い人たちの展覧会を全然やっていないし……それで、第三の道っていうか。

アーティストで一人、面白い人とパリで出会ったんです。
ルネ・マグリットをご存知ですよね?「これはマグリットじゃない」という展覧会(「マグリットと広告」)をした、ベルギー出身のキュレーターがいるんです。
なぜかというと、マグリットは画家になる前にデザインをしていたのね。その時に作った作品があるんだけれども、今の世界のデザインの傾向をみると、画家になったマグリットの模倣的なアイデアが満ちている、と。
確かにそうですよね、例えば石を描いたりそういう巨視化というのかな、そういういろんな発想があるわけですが。それで博士論文取っちゃった人なんですよ。

その人の展覧会をパリ広告美術館でしていて、すごく面白いなと思ったんです。マグリットがデザインし、アンドレ・ブルトンがコピーライティングをしていたベルギーのチョコレートの広告とか。

「デザインからアートに足をひとつ踏み出そうかな」と思っていた時にそんな展覧会があったので、「だったら私も」と。転機にもいいし面白いと思ったんです。
彼のコレクションと、彼自身に参加してもらって展覧会を開いたのが、ちょうどその時に見つけた、お米の業者たちが使っていた「食糧ビル」というビルなんです。

「昔の旦那衆というのはいいことしていたな」と思うんだけれど、とてもこぢんまりした昭和2年の建物で、でも明らかにデザインとかいろいろ勉強した方たちでしょう、その頃でいえば“棟梁”たちの作ったビルを見つけてしまったもんですから、そこで展覧会場を作りたいと思ってしまって。

ビルの中には、その旦那衆が新年会や講演会をする講堂があって、そこは柱のない空間なんですよ。誰もそういう大きい所は使えないで空いていたんですが、これがエキシビジョン・スペースになったらすばらしい、と思って、1980年頃に見つけたこのビルをリニューアルして、そこを展示場にするということをちょっとしてみたくなったんです。デザインの仕事でみんなでせっせと働いて安給料でやってきて、その時までに少し貯まってたお金を費用にして、仲間でありすばらしい空間デザイナーの杉本貴志さんに相談して改装しました。

人々が使ってきた床。私、ギャラリーは本当に床が大事だと思うんですね。鉄の大きな彫刻にしても、台を据えずに置ける、直に使える床というのがとても大事なんです。天井高が5mぐらいあり、ぼろぼろで使われてなかったんですけど、「眠れる森の美女」だと思って。杉本さんの監修で、思い切ってそこに改装費をかけて始めたんです。

どういう名前にするかというのも決まっていないぐらいのときに、「マグリットじゃない」という展覧会をしたということはつまり、オリジナルのマグリットのチョコレートの広告は貸していただけることになったんですよ、ヨーロッパのコレクターから。だけどその学者、キュレーターのコレクションしたものは、世界中の広告がマグリット的であるということで集めた巨大なポスターなんです。そういうものを持ってきてもらって、それから「名前をどうしようか」ということになって。

というのは、コレクターから作品をお借りする時に、美術館のカテゴリーを持っていないわけだから、どういう資格で美術の場を作るのかというのを説明ができることが必要でした。それをベルギーの学者といろいろやりとりして「エキジビット・スペースだったら大丈夫だよ」と言われたんです。

“佐賀”というのは、たぶん、佐賀藩の参勤交代のお家がその辺りにあったということで、昔から佐賀町っていう場所だった。それが日本の役所の名称変更で「町」を取っちゃってたんです。隅田川の永代橋の際なんですけど、私は「町だったんだから『佐賀町エキジビット・スペース』にしよう」と、その最初の展覧会を作りながら決めて。佐賀町というのはないから、それもちょっとシュールリアルでいいので、ずっと使い続けています。
お話が長くなっちゃったんですけど、大丈夫?

佐村 そんなことないです。
伊丹さんの映画『タンポポ』の中に、「カマンベールの老婆」が食料品店にやって来るシーンがあって、外観は、「佐賀町」の1階のカフェで撮影しているんですよ。店内はどこかのスーパーを借りて撮影したんです。
伊丹さんがクランクインすると、2日に1回ぐらいの割合で、朝のちょうど9時に自宅に電話かかってくるんですよ(場内笑)。「明後日のシーンの、スーパーのロゴマークを作ってくれる?」とかって(笑)。

講演会の様子

宮本 ひどい話ね(笑)。
佐村 それはもう慣れてますから。
ただ、今だったらパソコンですぐできるんですけど、(引き受けてから)写植を発注して、私は1点じゃなくて必ず数点は作って、監督に見せて選んでもらって、それを1階のカフェのガラスに貼って撮影……というようなことをずっとやってきたわけです。
そんなことで、佐賀町のカフェにもご縁があります。

小池 そうですね。誰っていう有名な建築家が建てたわけでもないのよ。だけど、なんか佇まいがいいっていうんですかね。階段の脇なんかも、昔のお台所によく使われていた、コンクリートに小石が入ったりしていてそれを研ぎ出した、温かい強い素材の——そういう環境でしたね。

そうやって「佐賀町エキジビット・スペース」という名称を作り、自分は経済的な背景も全然ないくせに、「みんながアーティストを一緒に育てていくべきだな」ということを勝手に思っちゃってたものですから。そんな豊かなデザイン事務所でもコピーライターの事務所でもなかったんですけど、必死で家賃を払いながら、「これは」と感じる新しいアーティストに出会っては、それを続けてきたんですね。

それが、80年代後半から90年代あたりまで。日本の現代美術の見え方としては非常にまだ勢いの少なかった頃でしたが、私たちは新しいアーティストとの仕事を繰り返しました。
私が信じていたのは、「個展をしっかりできるということ」。それをアーティストにも頼みたいし、私たちもそれを作ることができなきゃいけない、ということで積み重ねてきました。

そのときに“初めての展覧会をする人”をサポートできたら、と考えると、中途半端に入場料なんか取っても、それほど現代美術に大勢の人が来るわけじゃありませんから。今みたいな状況とは全然違うので。ですから、しょうがないやと思って、ある時は母にも「悪いけど」と言って、家を銀行の抵当に入れてもらって(笑)(場内笑)。

そうしながら、なんだか続けてきたんですね。
その時に展覧会をした人たちが、皆さん本当に力を発揮する方たちなんです。大竹伸朗さんにしても、森村泰昌さんにしても野又穫さんにしても。内藤礼さんとか、みんな初めて会って、その時20代・30代で、すごく力のある人だなと思った方たちが、そのあとご自分の道を続けて、見事な仕事を展開していらっしゃる。
最初の展覧会を仕込んだことの評価ということまでみなさんが掘り下げてくださるようになって、いろんなことで注目していただくようになったのが大きな背景ですけれども。

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