伊丹十三賞 ― 小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録

第14回「伊丹十三賞」受賞記念
小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録(1)

日 程:2023年3月6日(月)17時30分~19時
会 場:伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:小池一子氏(第14回伊丹十三賞受賞者/クリエイティブ・ディレクター)
    佐村憲一氏(聞き手/グラフィック・デザイナー)
ご案内:宮本信子館長

【館長挨拶】

宮本 こんばんは!(場内拍手)
ようこそいらしていただきました。本当にありがとうございます。
第14回伊丹十三賞受賞・小池一子さんの、特別な記念すべきトークイベントでございます。

講演会の様子

小池さんがずっと昔に携わっていらした渋谷の「PARCO(パルコ)」というところがあるんですけど、そこへ若い頃、私ずいぶんちょくちょく寄せていただきました。
本当にキラキラしてね、おしゃれで、なんて素敵なところなんだろうって。何も買えなかったんですけど……ただぐるぐる周っていたんですけど、憧れの場所でした。そして今は無印良品。時々利用させていただきます。

小池さんはその他いろんなことをなさってらっしゃいますから、今日はどんなお話をうかがえるのかと、非常にわくわくしております。

(小池さんを)お呼びする前に…こんなに松山は寒いんですね!(場内笑)なんか冷え冷えで。これじゃあと思って。もし御用の方は、このつきあたり(会場カフェ・タンポポの南側)の『タンポポ』ポスター(を掲示しているところ)の左が化粧室でございますので、おふたりのご了解を得まして、どうぞ遠慮なくいらしていただけると非常に安心でございます。そのことを申し上げておきます。

では、さっそくお呼びいたします。——小池さぁん!(場内拍手)
そしてもうひと方は、小池さんと親交の深い、伊丹映画でも本当にお世話になりました佐村憲一さんです(場内拍手)。
今日はようこそいらしていただきました。

講演会の様子
小池さん・佐村さん・宮本館長3人で記念撮影

宮本 今日はすごく、本当に楽しみにしていました。ではよろしくお願いします。私は余分な事を言わないほうがいいから。
小池さん、佐村さん、よろしくお願いいたします。

(場内拍手)

佐村 私は本業がグラフィック・デザイナーですから、こんな場所でおしゃべりするというのは生まれて初めてのことなので、大変なことになるかもわかりませんが——まぁ適当に(笑)(場内拍手)。

昨年は小池さん、非常におめでたい一年で、伊丹十三賞受賞と、なんでしたっけ(笑)——文化功労者と、今回のテーマと同じ“オルタナティブ”というご自身の大展覧会を開催され、大変おめでたい年でございました。

小池さんと私はもうずいぶん、何十年のお付き合いをさせていただいていますし、伊丹さんとも80年代初めからお付き合いをさせていただきました。お二方の関係で私がここに登場することになったと思うんですが、今回はとにかく、小池さんのすばらしい、今までなさったことをいろいろお聞きしていきたいなと思っております。

今回のテーマの“オルタナティブ”ということ自体は、あんまり馴染みのない方もいらっしゃると思うんですが、もともとは証券用語だったと思います。
なかなか、日本語にひと言で言い換えるのが難しいような気もするんですが——いろんな文化的な流れがあった時に、“もうひとつの選択”という新しい提案をするということを、アートとか教育とか演劇とか建築とか、あらゆることで小池さんがずっとなさってきました。
その辺りを中心にいろいろお聞きしていきたいと思います。

まず、小池さんは学生の頃とても演劇などに凝ってらっしゃったようですが、その辺りの話からお聞きしたいなと。

小池 はい、そうですね。「三つ子の魂なんとか」といいますけれども、私本当に、子どもの時から家族の中で何かをやってみせるのが好きでした。今覚えている一番最初のパフォーマンスというのは、ちっちゃいサロンエプロンをつけて、その中にピンポン玉を入れておいて、「コケコッコー!」と言って卵を産むということ(笑)。そんなことがありまして、もうずっと、学芸会人種だなと思っています。

大学に行く時には、唯一、早稲田の文学部に演劇科というのがあったんですよ。もうそこしかなくて。数学も理科も全然できないので、そこ(早大文学部)だと入試科目が国語と英語でいいというのを調べておいて。昼でも夜学でもいいから演劇科に入ろうと思ってそこに行ったことが、そのあとの私の仕事のやり方の決め手になったと思うんです。

まだちょっと戦後の——先輩の中には戦争や予科練に行きかけたというぐらいの方もいるという時代でしたから、無頼の雰囲気のまんまの早稲田で。

でも私が驚いたのは、東京しか知らない人間にとっては——疎開っていうがあるのでそれはまたお話しますけれども——地方から来ている人たちのほうがすごく勉強をしているんだという、そのショックがまずありました。
例えば、東北(岩手県)に渋民村というところがありました。石川啄木が育った村なんですけど、そこから来た一人の同級生は、すごく演劇や戯曲を読み込んでいて、独自の、もうなんとも言えない発想の演出をする。
そういうすごい——ちょっと兄貴分のような同級生、上級生を見つけたことを、たぶん私は、今の仕事でも原点にしていると思うんです。それで生意気にも、「世界を捉えるとしたら美術か演劇かなぁ」なんて思っていたんですね。

その頃の早稲田って、美術史と演劇というのがほとんど同じようなカテゴリーで授業も一緒だったりして。だから、その頃の学生劇団で日本一だったと思うんですけど、その劇団でいろいろと演出助手のようなことをしながら、美術の人たちとも活動していました。
今だったら簡単に動画なんかが作れるわけですけれど、美術史の人たちは浮世絵の研究をするっていうんですよね。じゃあ「浮世絵ってどういうものか」を描くシナリオ作りなんかを一緒にさせてもらって。そのように過ごした時間が多かったです。

私の周りのすべての学友、先輩たちは「歴史的に優れたものはあるんだけれど現代を書かなきゃ」と言っていました。だから創作劇ばっかりやっていて、私が仕事をするようになってからも「いま何を作るか」という起点が、まずそこにあった。そんな演劇の集団の生活をしていました。

佐村 それは早稲田の「自由舞台」(早稲田大学にかつて存在した学生劇団)ですか?
小池 はい、そうです。
佐村 いろんな方が出ていますもんね、自由舞台から。
小池 そうですね。私が一番驚いたのは、渋民村から出た秋浜悟史(あきはま さとし)という人で、日本では知られないでいる人。最後は大阪芸術大学の先生になって、(大阪芸術大学舞台芸術学科の学生が中心となって結成された)劇団☆新感線を「僕の子だ」とか言ってましたけれども。でも早く亡くなってしまったんですね。
そういう人と関わりながら創作劇っていうものを作ったことから「美術だったら現代美術しかない」っていう——そういう関係を持ったと思うんです。

佐村 なんか、オペラ歌手を目指していたとか聞きましたけれども(笑)。
小池 学芸会人種だから好きなんですよ、歌うのは。
そうしたら、チェリストの義兄がクラシックのプロの歌手につきなさいと言ってくれたんです。通い始めて一番勉強になったのは腹式呼吸です。いま気功をやっているんですけど、そのときに腹式呼吸をきちんとできたということが残っているのか、丹田呼吸というものに凝ってます。

佐村 昔どこか料理屋の和室で、小池さんが『キャバレー』の踊りをなさったのを、私ちらっと覚えてるんですけど。
小池 ああ、そうですか。ミュージカルを翻訳したから。
佐村 襖の間から小池さんの、まず素足が出てくるんです(場内笑)。それでこうやってね、手のひらを広げて(笑)、踊り出しちゃうんだよね。
小池 なぜかというとね、大学を出た後、大きい会社に勤める、いわゆる会社勤めの才能は私にはないなと思って、それで早くからフリーになっちゃったんですけど、翻訳の仕事で少し収入を得ようなんて思っていた頃に、その自由舞台の仲間で、新国立劇場の初代芸術監督にもなった、渡辺浩子という才女がいたんです。
渡辺さんがミュージカルの翻訳をしようと言うので、舞台に上げるようなミュージカルをちょっと手伝って。戯曲を全部一緒に読むんですけど、彼女に来た仕事だし、彼女の考えで監修してもらうわけですから、私は訳詞という立場で。
ミュージカルで『ファンタスティックス』と『キャバレー』ってあるでしょ。その翻訳をしたんです。

ミュージカルとかそういうものの翻訳って、本当にね、原語に忠実じゃなきゃいけなくって、音楽にそぐわなきゃいけなくて、日本語として綺麗でないといけない、っていう三重苦なんですよ。そういうことで、かなり言葉が鍛えられたかもしれない。
まあ翻訳の仕事のひとつである、ライザ・ミネリの映画で有名な『キャバレー』の訳詞は、いまでも好きでおります。

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