伊丹十三賞 ― 小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録

第14回「伊丹十三賞」受賞記念
小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録(3)

日 程:2023年3月6日(月)17時30分~19時
会 場:伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:小池一子氏(第14回伊丹十三賞受賞者/クリエイティブ・ディレクター)
    佐村憲一氏(聞き手/グラフィック・デザイナー)
ご案内:宮本信子館長

佐村 小池さんは25歳でもうフリーランスをなさってるわけですね。そこに何か自由さというか、周りの家庭の皆さんの理解というか、そういうことが、かなりその後の小池さんの人生の基盤になっているような気がするんです。
25歳というと日本の社会はどうしても男社会でもって、そこに切り込むっていうと大袈裟かもわかりませんが、“新たな提案”をしながら若い女性がいろんなことをなさっているっていうときは、相当な抵抗というか摩擦というか、そういうものが……プレッシャーとかあったんでしょうか。

小池 うーん、よく聞かれるんですけれども、それがね……嫌な思いをあまりしていないんですよ。私は本当に人の出会いに恵まれて、仕事中心の、何かを作り出す生活に突入しちゃったので。
その中の一番最初は、アート・ディレクター、画家、デザイナーの堀内誠一さん——『anan(アンアン)』などのもとになるマガジンハウスの構想を立てられた方ですけど、うちの家族の知り合いだったものですから。堀内さんのところに行って、何か秘書の真似事みたいな仕事の手伝いをし始めていたんですよね。

堀内さんというのは写真も非常に研究されていて、不思議な天才的な人でした。写真雑誌のアートディレクションをするわけなんですけど、そこに訪れる写真家が奈良原一高さんとか、東松照明さんとか、佐藤明さんとか——何しろ、彼らみんな20代だったと思います。そういう方たちがしょっちゅう来られていた。
写真家たちが写真を突き詰めて議論する。自分独自の世界を創る、ということがあるんだと知りました。

講演会の様子

そこで「じゃあ自分は何ができるんだろう」と思ったので、“言葉”をどういうふうに自分のツールにするかと考えました。その頃どんどん広告産業が盛んになってきていましたから、コピーライターという仕事をみつけたんです。コピーライターの養成講座というのがあったんですよ。そこに夜学で行くのと、昼間にはアド・センターという会社でそういう仕事をしてたんです。
佐村 みなさんご存知だと思いますけれども、いま小池さんがおっしゃった『anan』、それから、『POPEYE(ポパイ)』『BRUTUS(ブルータス)』『Olive(オリーブ)』といった雑誌のあのロゴは、堀内誠一さんが作られたもので、私もデザイナーとして非常に影響を受けた大変な方です。その堀内さんのところに、小池さんはいらっしゃったということですね。

そのあと、「キチン」——会社を作られますよね、小池さん。

小池 そうですね。堀内さんが基礎の道を無言のうちに示唆してくださって。
言葉で表現するだけじゃなくて、そういうビジュアル・アーティスト、チームワークでいろんなことができる世界なんだなぁっていうことを見せてもらったというか、感じ始めて。そういう仕事を続けていきたいと思ったところにひとりでいろんな人に会って、やっていけるかなって思って。それが早くフリーになったきっかけなんですね。
それで、今おっしゃったのは……。

佐村 キチン。
小池 堀内さんの会社の社長さんというのが無類のファッション好きで、もう一方にね、講談社なんかの女性誌のファッションページを請け負ってきて、私なんかも、特訓で何ページもすごい勢いでファッションページを作るような仕事をさせられたんです。
服好きなところはファッション・エディターの真似事に活かすことができて、それを自分で続けて仕事にできるかもしれないと思って。意識的に、ファッションの勉強を独学で始めながら書いていたんです。

それから、ほとんど同じ頃なんですけれども、フリーになってからの仕事で「田中一光(たなか いっこう)さんというアート・ディレクターがすごいらしい」というのを聞いて。それで無謀にも、早稲田の仲間と一緒にしていた小さなフリーのスタジオで、ある大きな印刷業界のクライアントが私たちに仕事をくれるということになって。それで、田中一光さんとの出会いになるわけね。

アート・ディレクターのすごさっていうのはいろいろあるんですが、堀内誠一さんでまず私は第一の洗礼を受けるわけです。

そのあと、江島任(えじま たもつ)さんという、文化出版の『ミセス』や『装苑』をずっとやっていらしたディレクターとも仕事をしながら、「自分たちの作るものがあるといいな」と思っていました。

一緒に組んだ早稲田時代からの友達と、印刷インキ工業会というのがありまして、そこのPR誌をやらせてもらうことがあって。
このとき私たちが飢えていたのは、インキがたれるばかりの厚い大判のグラビアで――今の方々、特に若い人はなかなかご存知ないと思いますが、アメリカの『LIFE Magazine』っていう大きな雑誌があったんですよ。「そんな世界を私たちも作れるかしら」っていう野望があって、田中一光さんがフリーになられたすぐの時、そういう大判のものを作ることにしたんです。

編集企画やページネーション(ページ割り)を、田中さんと全部一緒にさせてもらって、「これから日本でデザインをするとしたら力を発揮しそうな、若い人を探そうよ」ということで、その人たちの座談会をしましょうという企画を立てて。
「ファッションの分野で誰か」と思って、そのときの仕事仲間だったスター・モデルのお姉さんたちに「ファッション・デザインで若い人で、面白い人いないかしら」なんて聞いたら、「三宅一生(みやけ いっせい)っていう子が多摩美(多摩美術大学)にいて、なかなかだよ」って言われて。
それでお願いに行ったのが、私の三宅さんとの出会いの始まりですね。

だから、田中一光さんがアート・ディレクターで、私が編集で、座談会に出てもらった三宅さん……なぜかみんな「一(いち)」がつくのよね。「一光(いっこう)」と、「一生(いっせい)」「いちこ」と…(場内笑)。

佐村 (笑)いやぁ、本当にこれは面白い。「一光(いっこう)」「一生(いっせい)」「一子(いちこ)」……あと「一六(いちろく)」があったらよかったな(場内笑)。
小池 本当に不思議なめぐり逢いで、とっても気が合って、三宅さんのほうが私よりも2歳下だし、田中さんは私より7歳上だし、ちょっとずつ違うんですけど。
でも3人ですごい時間、熱く語り合ったのが、いまいろんな仕事に反映しているんですね。
そういうことの中で——…。
ちょっと長くなっちゃうけどいいですか?

佐村 ええどうぞ。
小池 私今日ね、こちらの記念館で時間を過ごさせていただいて、今この話ができないくらい——もういっぱいになってしまって。なんかね、「素晴らしいところに伺ったな」って、一言で言えばその思いで。
伊丹さんのすごさということと、やっぱり中村好文さんの建物への愛情、内容に対する愛情とすべてで、いっぱいになっちゃってるんですけれども。

講演会の様子
展示をご覧になる様子

小池 それでなんでしたっけ。キチンについての質問……。
佐村 伊丹さんとは、小池さんはほぼ同世代というか、小池さんのほうが3つ歳下ですかね。ですから、今日見たものの中に感じるものが、時代的にもいっぱいあったんじゃないかと思います。
小池 そうですね。

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