伊丹十三賞 ― 第8回受賞記念 是枝裕和×今野勉 対談採録

第8回「伊丹十三賞」受賞記念
是枝裕和×今野勉対談「伊丹十三とテレビ」採録(1)

2017年4月8日/伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:是枝裕和氏(第8回伊丹十三賞受賞者/映画監督・テレビディレクター)
     今野勉氏(テレビ演出家・脚本家)
ご案内:宮本信子館長

宮本 今日は第8回伊丹十三賞を受賞された映画監督・是枝裕和さんに、記念のお話を伺う会にしたいと思います。是枝監督たってのご希望でもうひと方、テレビマンユニオンの今野勉さんをお呼びしました。

(場内拍手)

講演会の様子

是枝 まずは今野さんと僕の関係を話すところからスタートしましょうか。もともと僕はテレビマンユニオンという番組制作会社に所属していまして、今野さんはその設立メンバーです。今の立場的には何になるんですか?
今野 今の肩書きは取締役最高顧問です。
是枝 僕が入ったのは1987年で、それから25年在籍しました。なので、今野さんと同じ組織で長く働いていました。入社3年目頃、今野さんがディレクターを務めた『しばれる瞳』というドラマで助監督についたことがあります。お弁当を運んでいただけで、まったく使いものにならなかったと思います。直接仕事をしたことはほとんどないのですが、僕にとってはとても大切な、会社の上司というよりテレビ人としての先輩です。自分がいろいろな意味でテレビを考えるときに、「今野さんがテレビをどう捉えていたのか」が、ものを作っていく上のひとつの指針になってきました。
今野 伊丹さんが一番テレビに出ていたのは1970年代前半。僕は当時、一番多くの仕事を一緒にしていました。今から40年以上前なので、会場の皆さんは当時のテレビ番組をほとんど見たことがないだろうと思います。このまま話をするのは非常に難しいので、対談の前に4本、70年代前半に伊丹さんと僕が作ったテレビの映像をざっと見てください。上映するのは今も続いている『遠くへ行きたい』が2本、歴史ドキュメンタリー『天皇の世紀』、ドキュメンタリードラマ『欧州から愛をこめて』。いずれもある意味で伊丹さんの代表作です。冒頭を4~5分ずつ見ていただきます。

(『遠くへ行きたい』「信長に捧げるポップスコンサート」。冒頭、安土城を訪問した伊丹氏が、拾った子猫を抱いて登場。猫の模様を琵琶湖に見立て、安土城周辺の地形を説明する)

(『遠くへ行きたい』「遠い海へ来てしまった!」。吉村昭の小説『星への旅』をなぞって陸中海岸を訪れる旅。番組冒頭で最後の撮影カットであること、小説に登場する少年を番組スタッフが演じたことを説明する)

(『天皇の世紀』「パリの万国博覧会」。侍姿の伊丹氏のアップからカメラが引いていき、現代のパリのカフェであることが明らかになる)

(『欧州から愛をこめて』。第二次大戦末期にスイスで和平交渉が行われたことをレポートする伊丹氏)

講演会の様子

是枝 実は僕も、テレビマンユニオンに入った年に『遠くへ行きたい』のADをやりました。ただ、番組開始の1970年から20年近く経っていて、もう番組の形が決まってしまっていて、非常に不自由だったんですね。前半と後半で一回ずつ食べ物が出なくちゃいけない、地図はこういうテロップで情報を出さなきゃいけないといった暗黙のルールがありました。伊丹さんのように猫の模様を地図がわりに使うとかありえない時代だったんです。それで、仕事をしていて本当につまらなかったんです。ですが、昔は面白かったんだという話を聞いて、テレビマンユニオンの分室に残っていたテープを見てみた。それがとても面白かったんです。
今野 最初は面白かった。いま見てもらった2本でも、伊丹さんはすごく自由ですよね。
是枝 一言でいうと自由ですね。
今野 ただ、最初からこんなに自由だったかというと、意外にそうでもなかったんですよ。最初に伊丹さんが『遠くへ行きたい』の旅人として出演したのは、見てもらった「信長に捧げるポップスコンサート」と同じ71年。伊丹さんの企画で「親子丼珍道中」という回です。伊丹さんと映画監督の恩地日出夫さんが、最高の親子丼を作るための食材を映画監督の山本嘉次郎さんに聞いて、最高の鶏や卵を探しに行く旅ですね。それで、山本さんに親子丼を食べてもらったらおいしかったという回。
2番目が「ズッコケ大発明珍道中」。いろんな珍発明を持って旅に出て使ってみる。たとえば「いつでもどこでも顔を洗える携帯洗面器」とか、そんなものを仕込んで行ったんです。ところがこの取材で、番組開始当時からやってきた佐藤利明というカメラマンが伊丹さんと議論を始めてしまったんです。「事前にこんなに仕込んで、それをただ撮るだけだと、旅での出会いが撮れないじゃないか。旅って出会いじゃないですか」と。そこで伊丹さんは実に正直に「実はそういうドキュメンタリーに出るのが怖くて、あらかじめ何か仕込んでおかないとできないと思った」と答えたんです。カメラマンの方もあまりに正直なので感動して、とりあえず撮影は終わった。つまり、テレビマンユニオンのチームはディレクターより先にカメラマンが平気で「このアイデアはつまらない」と言って、みんなが加わって議論が始まっちゃうような雰囲気だったんです。『遠くへ行きたい』の最初の旅人は永六輔さんだったのですが、その頃からそんな感じでしたね。

是枝 僕が入った頃はみんなが佐藤さんのことを「師匠」と呼んでいました。現場でディレクターが「佐藤さん、きれいだからこの景色撮ってください」と言うと、「きれいだったら見とけばいいじゃないか」と撮ってくれなかったという話をよく聞きました。佐藤さんは今野さんのおいくつ上でした?
今野 佐藤さんは僕の3~4歳上ですね。佐藤さんには印象的なエピソードがあります。現場のまわりで撮影を見物している人たちの顔を、カメラをパンして撮ってくださいと指示を出したんです。僕は編集を考えて、だいたい10秒くらいで「はい、そこでいいです」と言っても、佐藤さんはずっと回してるんですよ。しばらく経ったらようやくカメラを止めて、「次々と顔を見ていると、どの顔で止めていいかわかんない」と言うんです。つまり、秒数で切ることを考えないで、この顔もすごいあの顔もすごいと、人の顔を本当に見て撮ってるんですよ。それを聞いて、僕は非常に感動したんです。物事をカメラで機械的に見ているだけじゃなくて、人間として見ている。
それに、フィルムカメラで撮っている映像はカメラマンしか見えないんです。今のビデオカメラはモニターで共有できるんですけど、フィルムカメラはいったん回っちゃうとカメラマンのものなんですよ。どこを撮るかが彼の才能にかかっているわけだから、僕らも相当任せなきゃいけない感じがあった。なかなかのカメラマンでしたね。

是枝 今野さんは『遠くへ行きたい』を始める前はTBSにいて、その頃はずっとドラマ畑ですよね。伊丹さんもドラマは出ていたけれども、ドキュメンタリー的なものは初めてですよね。
今野 僕は、ドキュメンタリー番組を撮ったのは『遠くへ行きたい』が初めてなんです。伊丹さんもドキュメンタリーとは最初の出会いです。「ズッコケ珍道中」は二本目です。ところがさっきの子猫の回も同じ71年で、同じ年なのにすごく自由に変わっています。あれは本当に撮影の直前になって猫を発見しちゃったんですよ。撮影が始まるのに、伊丹さんとしては現場で拾った猫が放せなくて、どうしようか困っていた。「だったらそのことをカメラの前で話せばいい」と僕は言って、伊丹さんも納得して冒頭のシーンが決まった。それと子猫がとてもおとなしいので、琵琶湖に見立てるというのは途中で思いついた(笑)。
是枝 それはすごいですよね。猫を琵琶湖に見立てるのは誰が考えたんですか?
今野 猫好きの伊丹さんは、猫の扱いがほんとにうまくて子猫が膝の上でおとなしくしてるんです。それで伊丹さんが、猫で始めればいいじゃないかと気づいたんです。あらかじめ仕込んだものじゃなくて、その場で出会った人間や出来事を番組に取り入れていくのが旅の番組で、それで構わないんだよというのが我々の姿勢だったので、彼はそれを完全に自分のものにしていきました。
是枝 僕も同じディレクターとして興味があるんですが、番組を収録する旅の前にロケハンはあったんですか?
今野 やりました。だから安土城の天守閣跡で説明を始めることは事前に決まっていたけど、行ったらそこに子猫がいた。
是枝 「昔、城がここにあった」みたいな説明がありますけど、喋る内容はその場で決めてるんでしょうか。今だったら確実に台本がありますよね。
今野 その場所で撮影することを選んだからには説明しないといけないとなりますよね。だけど彼は、趣旨だけわかれば自分で言葉を考えるんですよ。「ええっと、あの」とかいう具合に。
是枝 その言い方は普通だとNGですよね。編集で切ります。
今野 そういう話し口になるから、本当にその場で考えて言葉を出してるという臨場感が出てくるんだよね。
是枝 「ええっと」というのは、逆に言うと臨場感を残そうという伊丹さんの演出が含まれた言葉ですか?
今野 かなりあると思います。「遠い海へ来てしまった!」も同じ口調で始まりますよね。あの番組では一番最後の撮影シーンが冒頭に置かれていて、「もう旅は全部撮り終えてます」と切り出して、小説『星への旅』の少年役を演じた人を紹介し、その回の趣旨をディレクターである僕に説明させる。初めからすごく計算しているわけですよ。最後の撮影シーンを冒頭にするとかスタッフを紹介するとかいう構成です。ただ、自然に見せることをちゃんと心がけないと、わざとらしくなってしまう。そうならないための話し方を伊丹さんは絶対に考えてますよ。
是枝 そのあたりがすごいと思うんです。普通は「自由ですよね」というと、何も決めずにただ自然にしていれば自由に撮れると思われがちです。でも、本当はそうではない。「撮れたものが自由に見える」ということは、おそらくどう撮ったら自分たちが体現したい自由さを番組にたたえられるか考えているはずなんですよね。スタッフが坂を登ってくるシーンで、一度カメラが動いて画面に光が入るでしょ。わざとやってるんじゃないかと思うんです。映っているフレームの外側も含めてどう番組化していくかという意識がある。

講演会の様子

今野 そう、意識しないと自由は表せないんですよ。通行人がカメラの前を通るけど、スタッフの誰一人として「困った」とかいう顔していないでしょ。
是枝 止めてもいませんよね。
今野 通行人が来ても我々に止める権利もないし、通って行くのも普通のこと。だから、通行人が来てもそのまま撮影は続けるよというのが、僕らの共通認識なんですよ。目の前を通行人が通っても、誰一人表情ひとつ動かさず普通にしている。僕なんかは、そんなにものすごく凝ったりとか考えに考えて作ったわけじゃなくて、わりと自然体でそうなったんです。そうした自然体は「自由」の表し方の一つなのでなくならないと思っていたんだけど。
是枝 でも、80年代後半にはなくなっていましたよね。すっかり見なくなった様子で、いま見るとかえって新鮮でした。今野さんは自分自身の青春時代とテレビというメディアが若かった時代を重ね合わせた本を書かれてますよね。時代のせいにするつもりはありませんけれど、何物かを探りながらジャンルに関わるという行為が、80年代後半にはもうかなり薄れてきていました。
今野 テレビ全体がそうだったのかな。
是枝 そうだと思います。ただ、1970年代だからといって、皆が今野さんや伊丹さんのようにテレビというものを自由に捉えていたわけではない。そういう時代だったという言われ方をするのは、たぶん今野さんは嫌だと思うんです。
今野 「時代が自由だったからできたんだ」みたいに言われると困るよね。じゃあその時代にみんな自由にやってたかというと、そんなことはない。
是枝 だとすると、カメラマンやディレクター、出演している伊丹さんが、あそこで表現されているテレビの本質的な面白さをどうやって掴んだのかが気になります。
今野 伊丹さんはああいう風に一見自由に喋っているけど、ものすごくサービス精神が旺盛なんですよ。自分の考えていることを伝えるためには、人々が好奇心を持つような言い方・やり方が大事だという意識があった。その考え方は映画になってますます発揮されたと思うんですよね。伊丹さんは自分が監督をやる前、市川崑さんの映画に出演したことがあるんです。その時に僕のとこに来て、「今ちゃん、市川崑って面白いよ。ひとつの演技をやるのに100ぐらいアイデアを出せと言ったり、自分で出したりする」と言っていたんですよ。で、撮影所に行ってみたんです。実際はさすがに100も出さないけど、俳優にいくつもいくつもいろいろなことをやらせて、どれが面白いかということで現場が回っている。そんな市川崑さんの仕事に伊丹さんは感動していました。映画はみんなが面白いように作らなきゃ駄目なんだというのが、本人の考えとも合っていたんじゃないかな。テレビ時代から伊丹さんにはそういうところがあった。面白く見せる、という思いが、伊丹さん流の「自由」を生み出す原動力になっていると思う。
是枝 そもそも今野さんと伊丹さんとの出会いは、今野さんが演出をされていたドラマ『七人の刑事』に遡るんですよね。
今野 実際に会ったのはドラマに犯人役で出てもらったときです。1966年だったかな。その流れで『遠くへ行きたい』に出てもらうことになった。名前を知ったのはもうちょっと前の『ゴムデッポウ』(1962)という短編映画。伊丹さんが監督して新宿のアートシアターで上映されていて、それを見てある種の衝撃を受けたんですよ。何もすることがない若者たちがアパートの一部屋に集まって、ゴム鉄砲に延々と興じているんです。それだけで何も起こらない映画で、台詞もドキュメンタリーみたいな言葉しか出てこない。その時代の若者たちの、空虚といっても閉塞感といってもなんだかうまく言い表せない「所在なさげな雰囲気」が伝わってきたんです。一切の台詞に意味を持たせないで、普通の若者たちのただの日常の言葉しか出てこないのに、映画からはある種の青年たちの、現代における所在なさが現れる。こんな日本映画、見たことなかった。ちょっと感動したんですよ。さっき宮本館長に聞いたら、あの映画を伊丹さんはそんなに気に入っていなかったという話でしたけど(笑)。あの映画は見ました?
是枝 見ました。映画としてはもちろんいま今野さんが仰った通りなんだけど、伊丹さんがそこからストレートに監督に向かわなかった理由がむしろ気になるんです。しかも、テレビも最初は演出ではなくて俳優ですよね。ワイドショーとかに出だしたのは60年代の終わりですか?
宮本 その間だと思います。
是枝 ある種のドキュメントへの興味というのはもとから持たれていたと思うんですが、その周辺の何を面白がっていたのかが気になっています。
今野 伊丹さんはなにかの本に「テレビマンユニオンは私の母校である」と書いたんですよ。僕たちと『遠くへ行きたい』をやる中で、たまたまドキュメントの本当の面白さを発見した。あそこで伊丹さんの隠れていた才能が一気に花開いたという感じがするんですよね。あらかじめ考えて監督をしてという作業より、その場で次々考えてそのまま映像になっていく方が面白いという風になったのではないか。その頃、映画監督になることはほとんど考えていなかったと思いますね。

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