伊丹十三賞 ― 小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録

第14回「伊丹十三賞」受賞記念
小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録(2)

日 程:2023年3月6日(月)17時30分~19時
会 場:伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:小池一子氏(第14回伊丹十三賞受賞者/クリエイティブ・ディレクター)
    佐村憲一氏(聞き手/グラフィック・デザイナー)
ご案内:宮本信子館長

佐村 話が戻るかもわからないんですけど。さっきの疎開の話で、78年前ですか、東京大空襲のときは、小池さんは東京にはいらっしゃらなかったんですか?
小池 いなかったんです。
佐村 ああ。
小池 私ね、“小池”っていう名前は、伯父伯母の家の名字なんです。
割合に親類が少なくて、私の実家は“矢川”という名字なんですけれども、小池は母のお姉さんの嫁ぎ先で。

7歳の時に、父親に書斎に呼ばれたんですよ。
「おじちゃんとおばちゃんの家には子どもが生まれない。だから、誰かが小池の名前を継いであげなきゃいけないんだけど、一子が一番おばちゃんたちと仲いいから、行けるかい?」って言われて。7歳の子どもにそういうことを聞くっていうのもすごいなと、今となっては思うんですけれど、「はい」って言うしかないじゃないですか。
書斎は暗い部屋で、父親のほうはどっしりした椅子に座っていて、その前に小さな椅子で座らされたら、本当にもう「はい」って言うしかないと思ったの。もちろん小池の伯父伯母がとても好きだったので。

もうその時に小池の家に行くことが決まるんですよね。決まった時には、変な家で、みんなでお祝いするわけ。でも私、「あんなきれいな着物着せてもらったことない」っていうような着物を初めて着て。父親が写真に凝っていたので、みんなで家族の記念写真を撮りました。今でもありますけれども。

でも、「名前は変わるけれど、どっちの家にいてもいいんだよ」っていう、妙に開かれたファミリーっていうのかな。
母親がちょうど——あ、ゆうべね、エッセイをひとつ、今日うかがう前にどうしても仕上げてこようと思って、送ったんです。婦人之友社の『明日の友』から、自由学園のデザインの変遷みたいなことを書いてと言われていて。
ちょっと書けないなぁと思いながら、コロナで散歩が日常になったときに、フランク・ロイド・ライト(アメリカの建築家)が設計した自由学園の建物の周りをよく歩いて、そういう子どもの頃のことを思い出したりしてたんですよ。

うわあ——話がとんじゃったけど…(笑)

佐村 どうぞどうぞ(笑)。

講演会の様子

小池 子どもの時から人前で表現することは好きだったし、いわゆる「父親と母親はこうあるべき」とか、封建的なやり方というのがずっといっぱいであった時代の子どもにしては、自由に動かしてもらっていたと思うんですね。小池の家にいてもいいし、矢川の家にいてもいいっていう。私の放浪癖、旅好きは、子ども時代に住居が定まらなかった、というところにあるかもしれないです。
平和で、どっちの家にいてもいいよって言われながら育って、小学生の3年の時に戦争が始まるんですよね。

だいたいのお友だちは集団疎開でクラスごとにどこかに行くんだけれど、縁故のある人はそれぞれのところに。小池の父が静岡県でクリスチャンの人たちの村みたいなものを受け継いで、そこに研究所みたいなものを作ったんです。そこにすぐ個人疎開に行くというので、それまでどこの家にいてもいいと言われていたのが、戦争で——個人疎開という名前で、静岡県の函南(かんなみ)に移りました。
そして、小学生3年から4年…5年ですかね、戦争が終わるまでそこにいました。

戦争のことを話したら長くなっちゃいますけど——
戦争は絶対にあっちゃいけないと思うんですが、ただ、東京の子どもが、突然田舎で暮らすようになって知ったことっていっぱいあって。四季の移り変わりとか……一番覚えているのは、川の流れているところにわざわざ行って、ずっと足を水につけてみんなで歌を歌ったとか。そういう生活っていうのは、都会にいるだけじゃ本当にわからない。
今の東京の子どもたちを見てると、「ある時期には地方に行って生活した方がいいんじゃないか」って思うぐらい“土離れ”していますよね。土離れすることが嫌だなって思うようになったのは、それが原点かもしれないです。

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