伊丹十三賞 ― 小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録

第14回「伊丹十三賞」受賞記念
小池一子氏トークイベント「オルタナティブ・スピリット」採録(4)

日 程:2023年3月6日(月)17時30分~19時
会 場:伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:小池一子氏(第14回伊丹十三賞受賞者/クリエイティブ・ディレクター)
    佐村憲一氏(聞き手/グラフィック・デザイナー)
ご案内:宮本信子館長

小池 ちょっとさっきのお話に戻ると、服好きということをどういうふうに自分の仕事に組み込んでいくかということでは、三宅さんとの仕事は“デザインの実施”ですよね。私は、最初からボランティアみたいに三宅さんに伴走して、彼の表現をもっと広げたいということで、直接会社の関係なんかには入らないで、友人としてずっとやってきたんですけれども。

その中で、私が美術館の仕事をするようになった一番最初のきっかけの展覧会(「現代衣服の源流」展、1975年)が、京都国立近代美術館です。その向かいにある京都市美術館(現・京都市京セラ美術館)は、青木淳さん・西澤徹夫さん設計の建物に変わりましたけれども、京都国立近代美術館のほうは今もまだ前の建物のままで、そちらでの展覧会でした。

20世紀の衣服の最もいい仕事をまとめる展覧会というのが、ニューヨークのメトロポリタン美術館で起こりました。
それまでファッション・マガジンの『VOGUE(ヴォーグ)』、『Harper's BAZAAR(ハーパース・バザー)』などの編集長を歴任したすごい大御所がいまして、ダイアナ・ヴリーランドっていう人なんですけど、その人がまとめた展覧会を京都に持ってくるという話を、三宅さんが中心になって進めることができたんです。

それは1975年のことなんですけど、その展覧会のタイトルが素敵なんですよ。「Inventive Clothes(インヴェンティブ・クローズ)」というのね。ファッションが日本で大きな動きになってくる直前の頃なんですけれども。

講演会の様子

みんながオートクチュールやモードっていうことを非常に騒いでいた時期でもあり、新しい既製服産業を——オートクチュールではない、プレタポルテ(高級既製品)の世界で日本でもたくさんの才能も会社も生まれていたわけですけど、まず20世紀の技術革新と生活の変化の中で、優れた仕事がどのように生まれたか。
それは簡単に言うと、いまでいうオートクチュールのデザイナーたちの仕事なんですね。一番もとになっているポール・ポワレというオートクチュールの元祖がいるんですが、それからマドレーヌ・ヴィオネ、シャネル、スキャパレリというような人たちの仕事をまとめた展覧会を、ニューヨークのメトロポリタン美術館でファッション・エディターであった方がまとめられた。非常に凝縮された、いい展覧会だったんです。

「Inventive Clothes」は、「1909-1939」という副題があるんですよ。ということは、いわば20世紀前半。インヴェンティブは革新的、革命的という意味をもっている。
そして1908年ぐらいから、パリがすばらしいデザイン、あらゆる文化の中心になっていくわけだけれども、その時代特にロシア・バレエの人たちの仕事っていうのが非常に大きな嵐を作ったんです。それに影響されて、衣装とかモードも、どんどん面白いものが生まれていく。
同時に、技術革新について言うと——一番象徴的な言葉としては、シャネルの「私はメトロに乗って働きにいく女性のためにデザインするわ」、そういう時代背景ですよね。

そのときの冬休みに、恒例の旅で、三宅さんともう一人の友達、テキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんとあちこち行ってたんです。73年の冬でしたか、アメリカに行ったときに、三宅さんはもうカリフォルニアに飽きちゃって、すぐ「つまらないからニューヨークに行く」と言って。
そうしたら、三宅さんから電話かかってきて、カリフォルニアの気持ちのいい太陽の下で魔鬼子さんと陽を浴びていたところに、「すぐにニューヨークに来なさい」って。そんなお金ないじゃないですか。そうしたら、ちょうど泊まっていたギャラリーのお友だちから「何かあるんだから、貸してあげるから行きなさい」って言われて、ニューヨークに行きました。

それがメトロポリタン美術館の展覧会でした。「これは我々が見て、日本に持って行かなきゃならないよ」と。そういうところってあるんですよね、私たち。
私は、それはモダニズムで育った癖だと思うんだけど。

私たちが一緒にいた時間っていうのは、ロンドンが元気になってきていた頃で、「でも、結局日本のファッションデザインというのは外の国で起きることをコピーしている」ということに飽き飽きしていました。
何か意味のある展覧会がもし日本で開けるんだったらね——なんていうことを思いつついたところに、ガンと、すばらしい革新的な衣服、モード、ファッションの言葉のない展覧会がますます気に入りまして。

それを見て、幸いなことに、三宅さんはスッと彗星のようにでてきた若いデザイナーでしたし、ファッションの会社の関係でいうと、ワコールの当時の経営者の塚本幸一さんが京都の商工会議所の会頭で、展覧会について相談すると、すぐ「京都も何かをすることが必要なんだ」と、見事に受け皿を作ってくださったんですね。ファッション産業特別委員会というのを商工会議所の中に作り、市にも府にも呼びかけて。
京都国立博物館の方たちも、日本の衣服史というもののすばらしい復刻コレクションを作れるからというので協力してくださいました。

京都国立近代美術館で20世紀の最前の展覧会をし、そして京都国立博物館のほうでは、日本の衣装の歴史の復刻の展覧会(「完全復刻による日本の衣装史」展)をしたこと。そういう画期的なことをさせてもらったということが、原点となった時期の、一番ありがたい仕事とのめぐりあいだったと思うんですね。

そうしたら、ここでこういう展覧会をするなら、ニューヨークの展覧会とはまるで違うっていうか――内容は同じなんですけれども、いわばキャンペーン全体、それから展覧会の展示デザイン、そういうものに至るまでのアートディレクションを徹底的に田中さんにやっていただくっていうルートをつけたので、それを評価してもらうことになった。ハワイにあった研究機関(東西文化研究所)に半年の留学招待で行かせてもらうことになるんですね。

それで、戻ってきてから作った会社の名前は、「イニシャルのKを取るとして、どんな言葉がいいかなぁ」って考えて。
ベルトルト・ブレヒトっていう、東ドイツに居続けた劇作家が「東ドイツではみんな台所で話すんだよ」と、「キチン」という言葉を使っていたのを思い出して、それで「K」のイニシャルで「キチン」としたのが1976年ですね。

その展覧会の仕事をしたために、また素晴らしい方たちにお会いできて。
衣服を見せる時って、マネキンがすごく大事なんです。そのマネキンのデザインを監修されたのが、武蔵美(武蔵野美術大学)の空間演出デザインという学科を作られた向井良吉さんという彫刻家なんです。武蔵美に行くようになったのは、1975年の衣服の展覧会があったからでした。
帰った時に選んだ言葉が「キチン」。私の仕事でいうと、これは素材料理屋っていうつもりです。

佐村 私の場合、「ナンバーワン・デザイン・オフィス」という名前は、この伊丹十三賞第1回受賞者の糸井重里さんにつけてもらったんですよ。彼が言うには「60年代後半、70年代というのはマイナーがカッコいいとされていて、一番とかメジャーっていうのはカッコ悪い」という時代がずーっとあったんですが、私が田中一光さんのところの事務所から独立して、自分の事務所を始めたのが1980年。「佐村君、今からはね、やっぱり“メジャー”だよ」「“一番”みたいなので名前にしましょう」ということで、糸井さんがつけてくれた。

確かに彼が言うように、80年代になると非常に華やかで、アンダーグラウンド的な時代がもう変わってきたというのが実感としてありましたね。だからネーミングというのも、よく伺ってみると、それなりの背景・必然性というか——面白いなぁと思いました。

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伊丹十三賞