伊丹十三賞 ― 第3回受賞記念講演会 採録

内田樹氏講演会 伊丹十三と「戦後精神」(3)

2011年11月29日 / 松山市総合コミニュティセンター キャメリアホール
講演者 : 内田樹氏(神戸女学院大学名誉教授 / 『内田樹の研究室』)
ご案内 : 宮本信子館長

 今日の演題には「戦後精神」と書きましたけども、伊丹十三が、高度消費社会の消費哲学とか商品記号論に似たものを先取りしていたせいで、僕たちは何となく彼を同時代人だと思い込んでいる。でも、そうじゃありません。彼は戦中派なんです。1933年生まれですから。これは、誰と同じかと言うと、江藤淳なんですよね。
 江藤淳は32年の12月、伊丹十三は33年の5月生まれです。半年伊丹さんの方が年下です。われわれはそのふたりの顔を思い浮かべるとき、江藤淳というとなんとなく老成したときの顔を思い浮かべ、伊丹十三は若々しい顔を思い浮かべるから、10も20も年が違うように思いがちです。でも、彼らは実は同世代なんです。
 33年生まれということは、戦争終わった時に12歳ということです。つまり、戦前の軍国主義の時代に少年期をまるごと残してきた世代だということになります。
 前に高橋源一郎さんと、吉本隆明と江藤淳というふたりの戦中派についてかなり集中的に話をしたことがありますが(「戦後批評 吉本隆明と江藤淳 ―最後の『批評家』」、『中央公論』2011年12月号)、この世代には他には見ることの出来ない、きわだった特徴があります。
 彼らより年上で、実際に応召して戦争に行った世代は、ある程度戦争の実情を見てきました。だから、「天壌無窮の皇運」とか「八紘一宇」とったイデオロギーが実は無内容な空語であるということを、兵士の実感として、あるいは生活者のリアリズムとして知っていた。中でも知的な人たちは、この戦争には大義が無いこと、いずれ敗北するだろうということまで予測していた。その戦争の中をともかく生き残って、敗残の祖国でもう一度生活を再建しようと考えていた。そういう人たちにとって敗戦はリアルな経験ではありますが、さまざまな苦労のうちの一つに過ぎません。
 一方、僕たち戦後生まれは、戦争に関して何の記憶も持っていない。従軍したこともないし、空襲を逃げ回ったこともないし、飢えたこともない。日本が民主主義になった後に生まれて、右肩上がりの経済の下で、好き放題暮らしてきた。
 この戦前派と戦後派のあいだに、戦中派という集団がいます。少年期には戦争の大義を信じ、おそらく20歳になる前に自分は死ぬだろうと覚悟を決めていたのが、ある日、戦争が終わる。昨日まで自分たちを鼓舞していた教師たちや周りの大人たちが、「間違った戦争が終わり、これからは民主主義の時代だ」と言い出した。「墨を教科書に塗らされた世代」です。
 この世代の人たちが総じて懐疑的な精神の持ち主になるのは、歴史的事情からすれば当たり前のことです。でも、それは単なる懐疑的というのとは違う。
 戦中派の特徴は、10代のある時期まで、ひとつの偏ったイデオロギーの中で育てられてきて、そのような世界しか知らないのに、ある日、あなた方が現実だと思っていた世界は幻想でした。あれは「なし」ということになりましたと宣告されたことです。
 戦前派であれば、戦争に入っていく前からプロセスを観察している。だから、「戦争以外の選択肢もあった」ことを知っている。戦争になったときに、鶴見俊輔や丸山眞男や加藤周一のような知性は「この戦争は負ける」と予測できた。そういう人は戦争が負けたときにも、別に天蓋が崩れるような衝撃を感じることはない。「やはり負けたか」と思うだけです。
 でも、33年生まれだと、そうはゆかない。満州事変が31年ですから、物心ついたときからずっと日本は戦争状態だった。「戦争をしていない日本」を知らない。すでに始まっていた戦争を日常的に呼吸し、戦争をする国家であるところの大日本帝国の「少国民」であることを自己同一性の一番基本に据えていた。その社会で価値ありとされていたものを自らの価値としていったんは血肉化していった少年たちが、ある日、それを捨てろと言われた。「1945年8月15日以前の自分を切り離して、今日から新しい自分が始まる」といったようなアクロバット的なことができるのか。僕はこの仕事にどれほど真剣に立ち向かったかによって、この世代の人々の知的なあるいは感性的な深みは決定されたのではないかと思っています。

講演会の様子

 僕は以前『昭和のエートス』(2008年)という昭和人論に、この世代の屈折について書いたことがあります。彼らは戦前に取り残した、おのれの半身を取り残している。少年期の経験も、喜びも、悲しみも、高揚感も、感動も、全部戦前の日本の記憶に貼り付いている。少年期に吸った空気、そこで自然だと思って取り込んできた概念や美や価値は、もう自分の中に受肉してしまっている。それを切り捨てろと言われても、それを切り捨てては、自分というものが立ちゆかない。「戦前に残されたおのれの半身のうち、戦後社会においてもなお生き延びるに足るものは何か? それなしでは自分が自分でいることのできないぎりぎりのものは何か?」それを探し出して、何とかして、それを戦後の半身に縫合しなければならない。
 この仕事の模範は年長世代のうちに見出すことはできません。周りを見回しても、これを完遂せずには自分が立ちゆかないと思い詰めているのは、自分と年齢の変わらないものしかいない。でも、みんな子どもたちですから、その中に、「こうやって私は切断された少年期の半身を奪還して戦後に縫合してみせた」という成功事例を語れるものはまだひとりもいません。だから、彼らは自分ひとりで、独力で、そのやり方を発見しなければならなかった。
 大人たちは「軍国主義教育はすべて間違っていた。これまで君らが習ったことは嘘だった」と言う。でも、そんな言葉に軽々しく従うわけにはゆかない。軍国少年であった少年期において自分が信じたことのうちには、ほんとうに人間がそれを信じ抜くに足ることも、人間が生涯をかけて守り切るべきもの、そのために死んでもいいというようなものも、含まれていたはずだからです。それを戦後社会は「全否定せよ」と言う。誰もそれを守ってくれない。だったら、少年たちが自分で自分の過去を守るしかない。
 そういうふうに考えたのが、戦中派の特徴だと僕は思います。その使命感は、先行世代にも後続世代とも共有されていない。この固有の世代的使命を感じていた集団に伊丹十三もまた属していた。そして、彼のいささかわかりにくい特性の多くは、この世代的な条件づけによっていくぶんかは解釈可能である、というのが僕の仮説なのです。

 例えば、江藤淳の戦後の仕事を見ると、明らかに戦中派的なこだわりを僕は強く感じる。
 60年代から後の江藤淳がもっとも心血を注いだ仕事の一つは戦後日本におけるGHQによる検閲の検証でした。江藤は60年代に大学のサバティカル(長期休暇)を使って、ワシントンに行き、ほとんど取り憑かれたように公文書館に通って、GHQの占領期日本における検閲の記録を精査しました。その情熱はほとんど「妄執」というのに近い。
 江藤が明らかにしたのは、占領期にGHQが日本の出版メディアに対して徹底的な言論統制を行っていたことです。「言論統制が行われている」という当の事実までが言論統制されていた。だから、占領期の日本人は行き交う言論が「検閲済み」のものだということさえ知らなかった。戦時中でも、人々はメディアの言葉が「検閲済み」であり、戦争指導部にとって不都合な情報はそこには開示されないということを知っていました。でも、占領期の検閲はさらに徹底的だった。そして、日本人はそのことを知らなかった。占領軍が去ったあとでも、それについては知りたがらなかった。江藤はその欺瞞性を暴き出しました。
 この研究に学問的にどんな意味があるのかは、僕にはよくわかりません。江藤淳以後に、この研究を継続した人がいるのかどうかも知りません。江藤の学的貢献が政治史的に重要なものとして敬意を持たれているのかどうかも知りません。たぶん後続世代には、江藤のこの執念はうまく理解できなかったのだと思います。
 僕は、この検閲研究は戦中派世代からの悲痛な異議申し立てだったと思います。「戦前においてわれわれはイデオロギー教育を受け、強いバイアスのかかった教育によってものの見方を歪められていた。だが、戦争が終わり、言論統制もイデオロギー抑圧も取り去られ、ついにわれわれは自由に語れるようになった」という物語を江藤たち少年は戦後、大人たちから聴かされて来ました。けれども、そう言って民主主義の旗を振っていた人々もまた戦前のイデオローグと同じなのではないのか。日本人は、8月15日以前は軍部によって言論統制され、それ以後は、GHQによって言論統制されている。民主と自由を謳歌しているつもりで、「アメリカによって検閲済みの言論」だけを選択的に語ることを強いられている。そして、それに気づかないでいる。それは、戦前に軍の言論統制に屈服したことよりもさらに恥ずべきことではないのか。江藤淳はそう言いたいのだと思います。
 あたかも十全に自由を享受しているかのようにうれしげな戦後のリベラリストたちの言説に対する江藤のこの異議申し立ては、その攻撃が向けられているところだけを取り出して見ると、かなり反動的なものに見えます。でも、実際には、これは右とか左とかいう党派的な差別とは無関係な仕事だったのではないかと思います。
 江藤淳は彼自身の少年期の言論空間を「工作されたものだ」として全否定した戦後のリベラリストに対して、「あなたたちが自由に語っているつもりの言説空間もまたGHQに工作されたものではないか」と言い立てている。つまり、江藤が言いたいのは、「8月15日に本質的な切断線はない。日本は敗戦の前も後も地続きなのだ」ということです。
 江藤淳は必ずしも、そこから「だから日本人はダメなんだ」という総括的な批判を導き出したわけではないと思います。江藤淳というひとりの生身の人間にとって、8月15日で日本がいきなり別の国になったわけではない。国はそのまま続いている。戦前の日本にあったものは、美しいものも、醜いものも、価値のあるものも、無価値なものも、かたちを変えはしたが、戦後日本にも生き延びている。デジタルな切断線を引いて、「ここから向こうはもう終わった時代の、もう存在しない社会だ。切断線からこちらだけがリアルで、線の向こうはアンリアルだ」と言う戦後リベラリストの健忘症を江藤は許せなかった。これもまた政治的に切り離されたおのれの半身を何とかして戦後日本の自分の半身に縫い付けようとする痛々しい外科手術のようなものではなかったのかと思います。

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