内田樹氏講演会 伊丹十三と「戦後精神」(2)
2011年11月29日 / 松山市総合コミニュティセンター キャメリアホール
講演者 : 内田樹氏(神戸女学院大学名誉教授 / 『内田樹の研究室』)
ご案内 : 宮本信子館長
ご紹介いただきました、内田でございます。
松山に来るのは3回目です。10数年前に学会で来て、10年程前に父と母と兄と家族4人で旅行で来て、今日が3回目です。
第3回伊丹十三賞を頂いたあとに、11月にこちらで講演をしてくださいというオファーを頂きました。喜んでお引き受けしたのですけども、「何を話すか」何ひとつ浮かばず、まあ、まだだいぶ先の話だから、贈呈式が4月で、まだ8ヶ月もあるから、その間に何かアイディアが浮かぶだろうと思っておりました。
何も考えぬままに日が経つうち、演題についての問い合わせがありました。その時に、フッと「伊丹十三と『戦後精神』」というタイトルを思いつきました。括弧付きの「戦後精神」。なんとなく、これで行けそうな気がして、そのまま今日を迎えたのであります。
Twitterを読んでる方はご存知かもしれませんけども、実は何を話すか全然決まらないまま、今こうやって演壇に立ってしまいました。
メモ書きはずいぶんたくさんして来たのですが、話がなかなか一つに絞り込めません。これは僕にとってはかなり珍しいことなんです。どんなテーマでもすぐに一席仕立てるのが特技なんですけれど、伊丹十三について松山で語るという宿題を与えられてからあと、なかなか話を思い付かなかった。少なくとも、僕自身の手持ちのスキームにはめ込んで伊丹十三を論じることは、どうも出来そうもない。そのことだけは日を追って、だんだんと分かってきました。
昨日も半日考えて、今日もさっきまで楽屋で考えて、やっぱり、上手くまとまらない。
こういう時、ふつうの人はずいぶん困るんでしょうけれども、僕はそれほど困らないんですね。どっちかっていうと、うれしくなってしまう。
というのは、「なぜ、私は伊丹十三についてきちんと論じることができないのか」と問題の次数を一つあげて考えればいい。
僕がうまく論じる枠組みを思いつかなかったのは、伊丹十三をみごとに論じている先行例を知らないからなんです。標準的な伊丹十三論がすでに存在するのであれば、僕はそれを参考にすることができる。敷衍するにせよ、批判するにせよ、とりあえず手がかりがある。でも、それができなかった。ということは、伊丹十三についての標準的な論が存在しないということです。驚くべきことではありますが、実は、伊丹十三を論じた、まとまった批評的言説というものは、いまだ存在していないのであります。
伊丹さんが亡くなったのは97年ですからもうずいぶん前になります。もちろんご存命の時から華やかな活動をされてきた方ですから、その才能や業績のクオリティの高さについては、これまでも多くの人が高い評価を与えていました。にもかかわらず、この人物が一体どのような戦略的意図に基づいて、あのような活動を、あれほど多彩な分野において展開し続けてきたのかについては定説がない。
「13の顔を持つ男」という言い方がされていますけれど、人間がどのような多面的な活動をするにせよ、目指しているところは結局はひとつなわけですよね。ひとつの強い志がある、一つの明確な目標がある。それが一つの手段では達成できないので、さまざまなかたちを経由して表現される。伊丹十三はあれだけ多面的な活動を展開したわけですが、その核にあったのは、一つの強い、明確な志だったと思うのです。とりあえず、僕はそのような仮説から出発します。
彼は多才であったとか、あふれるほどに豊かな才能があった、だから何をやっても上手だったという評価をされる人は多いと思うんです。でも、僕はそういう言い方はあまり正確じゃないと思う。そうではなくて、ひとつのジャンルの仕事だけでは、どうしても「自分が何をしたいのか」がご本人にもうまく捉えきれなかった。だから、ひとつずつジャンルをずらし、さまざまな方法を踏破することになった。ジャンルをずらしながら、伊丹さん自身が、ご自身の創作活動を通じて「いったい自分は何をしたいのか」を探っていたのではないか。僕はなんとなくそういう気がするんです。
それほどに、彼がめざしたものは「わかりにくいもの」であった。本人にさえよくわからなかったくらいですから。
自分が何をしようとしていたのか、伊丹十三自身もわかっていなかった。それが「誰でもが参照する標準的な伊丹十三論」が存在しないという異常事態のいちばんの理由ではないか、僕はそんなふうに思います。
例えばこの伊丹十三賞、私は第3回目の受賞者でありますが、第1回受賞者の糸井重里さんは、この会場で受賞記念の「講演」はされなかったんですね。松家仁之さん(当時『考える人』、『芸術新潮』編集長)との対談で、ご自分が伊丹十三から受けた影響などについてお話しされたと。でも、それはどうも「伊丹十三論」というものではなかったようです。第2回受賞者のタモリさんは、講演自体をしなかった。僕は3回目の受賞者ですが、これが正面から「伊丹十三」と題した講演をする最初の受賞者になるわけです。だとすれば、これから先の伊丹十三論のひとつのスタンダードになるようなものをここで語っておく義務がある。誰にも頼まれていないんですけど(笑)。
ここに至るには、いろいろ前段があります。贈呈式の時にも申し上げましたが、僕は久しい伊丹十三ファンでありまして、本はもちろん読んでいましたし、『mon oncle』も創刊から終刊まで全部読んでいましたし、講演を見に行ったことだってあるのです。
玉置さんが伊丹さんと出会った1970年代後半から1980年代はじめは、伊丹さんが比較的仕事が暇で、よく講演活動をされている頃だったと、さきほど伺いましたが、その頃僕が住んでいた東京都世田谷区上野毛の玉川高島屋で伊丹さんが女性対象のカルチャーセンターに講演においでになったことがありました。たしか家族論、子育て論について講演をされたのだと思います。
朝、新聞で、「今日午後伊丹十三氏玉川高島屋に来る」という記事を見て、「これは行かねば」と。その頃は大学の助手をしていたので、ウィークデーの昼間なのに家にいた。ですから、家からバイクを走らせて会場に駆けつけまして、入り口で「入れてください」と言ったら「だめ」と断られました。当たり前ですよね。事前申し込みもしてないし、第一、「今回は女性会員のための講演会ですから、男の方は入れません」と。でも、どうしても見たい。ほとんど土下座するようにして、とりすがって、お願いだから見せて下さい、ドアの隙間からでもいいですからと受付の女性に懇願して、無理にホールの後ろのドアの隙間から、立ち見で眺めさせていただきました。
期待にたがわぬ素晴らしい講演でありました。内容は覚えていていませんけども(笑)。たしか育児論だったと思います。僕もその頃育児をしていたので、胸に沁みる言葉ではありました。
その時の気分というのは、アイドルのステージをみつめるファンのような心理でした。そのとき、自分が実に久しく伊丹十三という人の熱烈なファンだったということに気づきました。だって、僕が講演というものを自分の意思で聴きに行ったのは、生涯で伊丹十三ただひとりだからです。あと、いないんです。
そもそも僕が伊丹十三という人物の名を知ることになったのは、大江健三郎の小説を通じてでありました。
今では大江健三郎の60年代の小説はあまり読まれることがありませんから、今日いらしている若い人にはちょっとぴんと来ないかも知れませんが、大江健三郎の初期の傑作に『日常生活の冒険』(1964年)という小説があります。
これはなかば私小説でありまして、大江健三郎と思しき小説家のところに、伊丹十三と思しき無頼の美青年が登場し、筆禍事件の後遺症で、ヒポコンデリア(心気症・憂鬱症)に陥っている作家を冒険の旅へ連れ出して彼の魂の救済を完遂するという、ロードムーヴィー的なテンポのよい小説なのであります。近年の大江健三郎からは想像がしにくいですが、60年代の大江の小説はワイルドで、スピード感があって、豊かな娯楽性さえあったのです。
小説の主人公の、大江健三郎をモデルとした人物は、気鬱な人物で、あまり魅力がないのですが、彼を救いに突然やってくる斎木犀吉(さいきさいきち)という人物は極めていきいきと魅力的に造形されておりまして、大江健三郎の作品の中に登場してくる男性の登場人物の中で、もっともチャーミングな人物でした。大江健三郎は素晴らしい作家だな、このような人物を造形できるなんて…と感心していたら、「あれは、実は伊丹十三という俳優がモデルなのだよ」という話を誰か物知りに教えてもらいました。そのときに、大江健三郎が伊丹十三の高校時代からの知人で、その義弟であることも教えられました。
それからあとも僕は80年代まで大江作品のかなり忠実な読者でした。その理由の一つは、間違いなく彼が造形したひとりの主人公の魅力によるものです。
「鳥」と書いて「バード」とルビが振ってあるこの人物は、『不満足』(1962年)という短編に暴力的でかつ知的な青年という矛盾したキャラクター設定で登場し、その二年後の『個人的な体験』(1964年)に一層深みを加えて再登場します。
今にして思うと、「鳥」というのは、大江健三郎が、彼自身と伊丹十三を混ぜ合わせて作り出したキャラクターではないかと思います。知性的で内省的であると同時に、衝動的で暴力的であるという、この矛盾した人物を造形しえたことが『個人的な体験』の小説的な成功に深く与っていると僕は思います。少なくとも、僕自身はストーリーそのものよりも、この主人公の発する強い磁力のようなものに惹きつけられました。
大江健三郎の小説の主人公は程度の差はあれ、作家自身が自己投影されていますが、そのフィクションの主人公に「伊丹十三」的なものを付け加えることで、作中人物は突然生々しい熱を発するようになった。それは大江健三郎にとっても、伊丹十三が「男性的魅力」というもののひとつの際だった実例として存在していたからではないかと僕は思います。
そして、大江経由で伊丹十三という人に興味を持ち、その頃出始めていた彼のエッセイを読むようになりました。伊丹十三のエッセイを僕は三十代のはじめの一時期、文字通り座右において、繰り返し、暗誦するほど読み込みました。ですから、僕のものの考え方か価値観や美意識に伊丹十三的なものはつよく刷り込まれています。
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『mon oncle』(モノンクル)…伊丹十三責任編集による、精神分析をテーマとした月刊誌。1981年7月号から12月号まで、全6号が朝日出版社より刊行された。 |
『ヨーロッパ退屈日記』を暗記するほど読んだという人は、僕らの世代には少なくありません。例えば、『ヨーロッパ退屈日記』の新潮文庫版解説を書いている関川夏央さんがそうです。僕たちの世代にたいへんに強い影響力を与えた人なのに、先ほどから言っている通り、それが「どういう影響」であったのか、それをまだ誰もうまく言葉にできないでいる。
そのあと、映像作家として、あるいは俳優として、CMのプランナーとして、プロデューサーとして、様々な形で次々と新しい活動を行っていかれたわけですけども、いったい彼は何をしようとしているのか、那辺に伊丹十三のオリジナリティーと魅力があるのかということについて、きちんと語りきった言葉はありませんし、語ろうと試みた言葉のあることさえ僕は知りません。
97年に伊丹さんは亡くなるわけですが、亡くなったあと、これほどのスケールの人物ですから、「いったい伊丹十三とはどのような人間であり、どういうようなプロセスを経て人格形成を果たし、どうしてこのような表現を選択し、どのような同時代的な影響を与え、どのようなメッセージを残そうとしたのか」について、包括的な研究なり分析なりがなされて然るべきだったと思います。でも、それに類するものをついにわれわれは持たなかった。
こう言うと差し障りがあるとは思いますが、その理由のひとつは、大江健三郎という人の存在だと思うのです。
大江さんは伊丹さんの死後、『取り替え子』(2000年)という、明らかに伊丹十三と思しき人の死を経験した、大江健三郎の分身である古義人という作家の苦悩を描いた長編小説を書きました。たいへん濃い小説で、そこには「伊丹十三について語るのは私を措いて他にいない」というつよい自負の念がこめられていたと思います。でも、それは同時に伊丹十三について他の人が語ることに対する隠然たる抑圧としても機能したように僕は思います。
大江健三郎は日本のジャーナリズムに対しても、文壇・論壇に対しても、つよい影響力を持っています。現代日本を代表する作家であり、知識人であり、いわば日本の「文学的な叡智と良心」を象徴するような人物が、伊丹十三について語るときの特権的な立場を占めている。高校時代からの友人であり、義理の兄弟でもあるわけですから、伊丹十三についての個人情報において、大江健三郎に及ぶ人がいるはずがありません。でも、それが一種の抑圧として働いていたということは否定できないと思います。「伊丹十三について、ちょっと書いてみたい」「ちょっと論じたいな」と思っても、大江健三郎をはばかって、自主規制したということはしばしばあったんじゃないかと思います。
そういう個別的な事情は措いておいても、伊丹十三が非常に「語りにくい人物」であることは間違いない。
もう数年前になりますが、新潮社の『考える人』という雑誌が、戦後の100人の代表的な人物を選んで、それについてひとりひとりが論評していくという特集(「戦後日本の考える人100人100冊」、『考える人』、2006年夏号)を組んだことがありました。僕もその頃『考える人』に連載をしていたので、寄稿のお声がかかりました。選んだのは手塚治虫、長谷川町子、伊丹十三でした。
こういうアンケートの場合、論ずべき100人のリストは編集部があらかじめ選んでいるわけで、その中の誰を論じるかは、「偉い人」から順番に「じゃ僕はこの人論じるから」と取りのけてゆくことになります。僕なんかは一番下っ端ですから、リストが回ってきた時はもう8割方は書き手が決まっていて、たぶんそれまで「ちょっとこれは…」って除けたあとの人たちが残っていた。その中に手塚治虫、長谷川町子、伊丹十三がいました。知識人に対するアンケートですから、マンガ家ふたりが残るのはわからないでもないのですが、伊丹十三が残されていたのが僕には実に意外でした。
なるほど、どこを切り口にして論じたらいいのかが、たいへんに分かりにくい人なのだということをそのときに知りました。岸田秀先生がもっとお元気だったら、伊丹十三論として長いものをお書きになったかも知れない。村松友視や山口瞳といった親交の篤かった文人たちも、山口さんはもう亡くなられましたが、書いてよかったと思うのですが、そういう方たちも含めて、本格的な評伝というものが書かれていない。『ヨーロッパ退屈日記』の文庫版解説に関川夏央さんがみごとな伊丹十三論を書いていましたが、これはほんとうに例外的な仕事だったと思います。
特に、伊丹十三の「世代的な傾向」について論じたものは管見の及ぶ限り存在しません。でも、伊丹十三もまた生まれ育った歴史的環境から自由に生きていたわけではありません。色濃く、その時代が刻み込まれている。僕はそんなふうに考えます。
伊丹十三は、『ヨーロッパ退屈日記』を20代の後半で書いて、鮮烈な、劇的なデビューを飾った人です。登場のときにすでに完成した文体を持っていた。かつ、そこで扱われたトピックは、"アル・デンテ"とか"エルメス"とか"ヴィトン"とか"ロータス・エラン"とか"ジャギュア"とかというような話でした。それらの単語を僕たちはどれも伊丹十三の本で初めて知ったのです。
このトピックの選択は、1960年代のリアルタイムの日本人の消費生活水準から考えると、信じられないようなハイレベルの、ハイクオリティーの商品についてのものでした。でも、それらについての、非常に深い、一種の商品哲学のようなものが展開されていた。とりわけ、ヨーロッパの階層社会についての鋭い分析があった。
『ヨーロッパ退屈日記』は今から50年ほど前に、20代の青年が書いたヨーロッパ文化論だったわけですけれど、それが現在にしてなおリーダブルであるどころか、出版当時と変わらない高い批評性を維持できている。これは驚くべきことだと思います。
もし、それが、そのあと出てきた、『POPEYE』とか『Hot-Dog PRESS』とかいうメディアと似たような情報誌的なアプローチで、「今アメリカではこんな音楽が流行っている」とか「イタリアではこんなファッションが流行っている」というようなカタログ的なトリビアを披瀝するものであったら、とうの昔に消費され尽くしていて、今さらそんなものを読み返す人はいなかったでしょう。でも、伊丹十三が書いたものに限っては、「どういう車がよい車であるか」とか、「どういうレストランで、どういう料理を食べて、どういうワインを選んで、そのときには、どういうような服を着て、どういう靴を履くべきか」というようなことを縷々書き綴ってある文章の魅力がいまだに少しも色褪せない。他の凡百の情報誌的なトリビア情報へのニーズがすべてかき消えたあとに、なぜか伊丹十三の商品情報だけが未だに残っている。未だに読むに堪える。それはなぜなのでしょう。
伊丹十三のエッセイに限って、いまだに読むと胸を衝かれるような鋭利な批評性が存在する。そのことにわれわれはもっと驚いていいと思います。このエッセイには他のものとまったく違う何があったのか。それは何か。なぜ「それ」は今でもリアリティを失わないのか。そういう問いはある程度時間が経たないと提起できないものだったと思います。
リアルタイムで『ヨーロッパ退屈日記』を読んだ編集者や批評家たちの中には、伊丹十三をかなり低めに評価した人もいたと思います。これを70年代以後すさまじい勢いで昂進してゆくことになる高度消費社会の前駆的な形態だとみなし、伊丹十三を「消費文化の旗手」のようなものとして高をくくり、「一時の流行り物だから、いずれ消えてしまうだろう」と思っていた人は決して少なくなかったと思います。実際にそう訳知り顔に言っていた人たちはかなりいたと思うんです。でも、残念ながら、伊丹十三は消えなかった。なぜ消えなかったのか。それはリアルタイムでの読者たちが、僕や関川さんのような熱心な読者も含めて、「見落としていたもの」があったからではないか。
今日のテーマは、実は『ヨーロッパ退屈日記』という一冊のエッセイを、徹底的に読むことで、この洒脱なエッセイが隠している深いメッセージを探るということなのであります。
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『ヨーロッパ退屈日記』…伊丹十三のエッセイデビュー作。1963年『洋酒天国』(寿屋、現サントリーのPR誌)の1月号に掲載。その後、さまざまな雑誌に掲載されたエッセイを併せ、1965年「ポケット文春」シリーズから『ヨーロッパ退屈日記』(文藝春秋)のタイトルで単行本として刊行された。1974年B6判単行本(文藝春秋)、1976年文春文庫、2005年新潮文庫刊行。関川夏央氏による解説が掲載されているのは新潮文庫版。 |