第7回「伊丹十三賞」受賞記念
新井敏記氏 トークイベント(5)
2015年11月10日/伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:新井敏記氏 (第7回伊丹十三賞受賞者/編集者、ノンフィクション作家、
スイッチ・パブリッシング代表)
松家仁之氏 (聞き手/小説家、編集者)
ご案内:宮本信子館長
松家 新井さんのインタビューの中で。
新井 そう。「すり合わせ」という言葉が、ものすごく印象に残ったんです。単に自分のやりたいことだけをやるんじゃなくて、人の望むことと、自分のつくりたいものの間に接点を見出すことができれば、エンターテイメントの最上のものになると。それを伊丹さんなりの言葉で伝えてくれた。雑誌作りについても言われたような感じがしたんです、その言葉で。
僕なんか、もう本当に身勝手だし。「自分が責任取ればいい」と思って、売れるとか売れないとかあんまり関係なく自分が好きなものだけやるということを、ややもするとやっちゃったりする。それが良いこともあれば、良くない結果も出ちゃったりするんですが、それを「すり合わせる」ということを軸にして、もう少し考えてみてもいいんじゃないかと、その時につよく印象に残って刷り込まれたんです。本当はもっと、そのあたりのことを伊丹さんから学びたかったなと思います。
松家 難しいことを難しく語るのって、そんなに難しくないんですよ。難しいことをやさしく語るのは、実はすごく難しい。だから伊丹さんがエッセイに話し言葉を採用したのも、いま新井さんがおっしゃったような「ちゃんと伝えるにはどうしたらいいか」ということを考えた結果だと思うし、伊丹さんの映画というのも、実は難しいテーマをエンターテイメントという形でどう伝えるか。それを実現した人だったんじゃないかな、という気がします。
新井 ですよね。その精神を改めて記念館で発見しました。本は読んでいて映画も観ていたんですけど、直接にお目にかかって一度だけですが「言葉をもらった」ことの意味を噛みしめましたね。
……それで、展示室を出た時の、なんとも気持ち良いこと。密度の濃い中を巡って回廊に立った時に、すごく開放された感じがして。ここの場所もすごく好きでした。
松家 (客席に向かって)ご存知かもしれませんけど、この記念館を設計したのは、中村好文さんという建築家なんです。
中村さんは、私以上に伊丹十三フリークの人で、たとえば昔、伊丹さんが『ミセス』で連載していたものも、全部綺麗に切ってファイルして持っていたりするんですよ。僕が『伊丹十三の本』を編集する時も、中村さんが『ヨーロッパ退屈日記』の一番最初の、ひとまわり小さいサイズの「ポケット文春」版のものを貸してくださったりしたんです。
そういう、伊丹十三を知りつくした人がこの記念館をつくったので、建築家としてとても喜びがあったと同時に、「伊丹さんがこの記念館を見たらどう思うだろうか」ということが常にあったと思うので、緊張もされたんじゃないでしょうか。その期間はこの記念館に全精力を注いでいるのを脇で見てきていますから。こういう形になってほんとうに良かったなと思うし、新井さんがこんなに気に入ってくださったことも、ほんとうにうれしいですね。
新井 お世辞じゃなく、すごく良いなと思った。だから回廊にあるベンチに座って、しばらく桂の樹を見上げてボーッとしていましたね。そのとき、桂の樹からすごく甘い香りが漂ってきたんですよ。
松家 宮本さんもおっしゃっていましたけど、桂ってものすごく綺麗な黄色い紅葉なんですね。それが落ちたあたりで、すごくいい匂いがするんですよ。
あと何より今回、感謝しなきゃいけないのは――僕ね、大江さんに伊丹さんのなんたるかを教えていただいたんです。大江健三郎さんに。
松家 あ! そうですか。新井さんなりに、伊丹さんのものを見てはきたものの――
新井 『11PM』や『漫画讀本』で、「伊丹十三」という存在をはっきりとは知らずに触れていた時代があって、つぎには、『ヨーロッパ退屈日記』とか『女たちよ!』で読んで知っていた時代がある。雑誌編集者としては、『mon oncle』が登場して、どこか「ライバル視」みたいな意識をした時代もある。本当に不遜なんですが、そういうものを見ながら「自分ならどうしてやろうか」みたいなことを野心満々に考えていた。
そうではないかたちで、伊丹十三さんの存在を「伊丹十三」として知らしめてくださったのは、大江健三郎なんですよ。大江さんに『SWITCH』でインタビューさせていただいて、大江さんからいろんな話を聞いた時に、もちろん関係性は知っていたんですが、伊丹さんが大江さんにとってどれほど重要だったのか、ということをあまり知らなかったんです。
大江さんが松山東高校時代に伊丹さんに出会って、たとえば伊丹さんがディレクションして、大江さんがモデルになって、『黒いオルフェ』の「ガラスを割って自分が寝そべった写真」を撮られたこと。たとえばそれはランボーとヴェルレーヌみたいな師弟の関係かもしれないし、もうちょっと友達みたいな関係かもしれないし、わからないんですが、大江さんがその記憶を嬉々として話してくださったことがとても印象的だったんです。そのとき、その足で松山東高校に行って、『掌上(しょうじょう)』という文芸部の雑誌を見せていただいた。あの時は「伊丹十三」という名前じゃなかったのかもしれないけど……
松家 池内義弘ですか。
新井 そう。あと、ペンネームもありますよね?
松家 あ、ペンネームでも書いていますよね。
新井 それも見せていただいて。「こういう人です」というのを大江さんから教わったのは、宝物のような時間だったということを思い出しました。今回ここに来ることによって、伊丹さんのこと、大江さんのことを「宿題として持って帰ろう」と思いました。
松家 僕の中学時代は、さっき「伊丹十三の本の色が変わるぐらい読んだ」と言いましたけど、小説部門では圧倒的に、大江健三郎さんなんですね。もちろん読んでいれば二人の関係もわかってくる。より一層、ふたりの著作に夢中になっていく。僕も、大江さんと伊丹さんの友人関係がどういうふうに作用したのかって、たぶん一言では言い尽くせないような、非常に複雑な関係だったというふうに思うんですけど。
伊丹十三という人が、「話し言葉」で書くということに徹底してこだわった理由はいろいろあると思うんです。さっき語った理由もあると思うんですけど、一方で大江健三郎という作家は、日本語の「書き言葉」としての可能性を、極限まで追い求めて作り上げた小説家だというふうに思うんですね。もちろん伊丹さんも、大江さんの小説を読んでなんらかの意識をもったと思いますし、大江さんも伊丹十三という存在が常に意識されていたと思うんです。だから二人の関係が、それぞれの世界を強く大きくしていく、「目に見えないエンジン・駆動力」になったのは間違いないんじゃないかなと。
新井 ですよね。肩を叩きあうというか、うしろから背中を押されたような形で。
松家 お互いにね。
伊丹さんがなぜ小説を書かなかったのか、大江さんがなぜもっとエッセイを書かなかったのか。お互いの領分という意識が少しはあったのかもしれないなとか、文章をまじまじと見ながら。たとえば伊丹さんの直筆も展示されているじゃないですか。それがなぜかね、大江さんの筆跡に重なってくるんですよね。
松家 ちょっと共通するところがありますね。
新井 そう。原稿の直し方も似ている。なんともいえない「吹き出し」みたいなものを書き込んで直す感じも同じです。僕は大江さんの生原稿も見ているので、懐かしい感じがして、二人の関係をあらためて意識しましたね。多感な高校生の時に出会えば、互いにものすごく大きな影響を与えあいますよね。違う道を進みながら、互いに意識して。時には離れて、時には再会して、ずっと繋がっているのって、すごくいいなと思いましたよね。
松家 大江さんと伊丹さんの共通点をもう一つ思いついたんですけど。ユーモアがあるんですよ。
新井 ああ……
松家 どこかで、必ず笑わせるところがサッと顔を出すところがあるんです。それが「落ちない」というか、ちゃんと「品」を保ちながら笑わせる。やっぱり人間というものの存在を根源まで考えていった時に、深刻な人間を深刻に描くというだけだと、届く距離が短くなると思うんですね。そこにユーモアというものが入ってくると、もっと深くまで入っていける。
伊丹さんの映画も、どこかで笑えるじゃないですか。笑うと同時に、深刻なテーマにもグッと入っていく。そのバランスの具合も、実は共通しているところがあるんじゃないかなって。今、咄嗟に思ったんです。
新井 僕も今それを言われて、「ああ、そうなんだ。“すり寄せる”ということは“伝える”ということなんだ」ということを、松家さんの言葉から思いました。「今日、俺が一番おいしい思いをして帰る感じだな、嬉しいな」って(場内笑)。宿題がいっぱいあるっていいなと思いましたね。
昨日、沢木さんが講演の中で、「生き生きとしている」ということを、ご自分の創作スタイルの中で重ねて言われましたけど……
松家 昨日沢木さんの講演会もいらしたという方、どのくらいいらっしゃいます? (手を挙げる)
ちらほらいらっしゃいますね。じゃあその前提で――
新井 最後に沢木さんが、「これまでノンフィクションを書くということを主にしていたんだけど、今は小説を書いている」と。なぜ小説を書くのかという疑問の声も沢木さんの耳にはいくつか届いているけど、小説を書くのは「自分が一番生き生きした瞬間に立ち会えるからだ」というようなニュアンスがありました。
その「生き生き」こそ、創作の根源じゃないのかと僕も思いました。雑誌作りにも「生き生き」というのはすごく重要なんです。それは本当に、30年たっても変わらない。ハラハラ、ヒリヒリしていないと、おもしろくない。同じだなと。
伊丹さんも、時には俳優であり、文筆家であり、イラストレーターであり、映画監督だったわけですが、それぞれの時代に、表現者として「生き生き」とやっていたのはまちがいない。これはほんとうに大事なことですね。じゃあ自分はどうなのかということは、また考えないと(笑)。