伊丹十三賞 ― 第7回受賞記念トークイベント採録

第7回「伊丹十三賞」受賞記念
新井敏記氏 トークイベント(2)

2015年11月10日/伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:新井敏記氏 (第7回伊丹十三賞受賞者/編集者、ノンフィクション作家、
     スイッチ・パブリッシング代表)
     松家仁之氏 (聞き手/小説家、編集者)
ご案内:宮本信子館長

松家 僕は中学生の時から伊丹さんの本を繰り返し読んで、本に手の跡が残るくらい、もう何十回と読み続けてきたから、だいたい同世代ぐらいの伊丹ファンが現れても、「こっちが勝つ」(場内笑)と、ふだんは思っているんです。ところが、今回すごくショックなことがあったんです。
伊丹さんの『女たちよ!』の中に、「二日酔の虫」というエッセイがあります。そのエッセイに添えられたイラストレーションの原画も記念館に展示されています。
大酒を飲んでひどい二日酔になった人が、どうにかして頭痛や吐き気をなんとかしたいと思ってるわけです。そうすると、こめかみになにかプチっとデキモノがある。それをつまんでピュッと指で引っぱると、すごく嫌な酒臭い紐のようなもの、「二日酔いの虫」が出てくるんです。引っ張れば引っ張るほどずるずると。それを全部引っ張り出して、桶の清浄な水で綺麗に洗いたい。二日酔いというのはそういうものだと――そういうエッセイがあるんですね。その「二日酔の虫」を、実は伊丹さんは実写の短編映画にもしているんです。それを一回だけテレビで放映したらしい。実は僕には4つ年上の兄貴がいたんですが、兄貴は見てるんですね、その映画を。僕は見ていない……そしたら、僕より4つ年上の新井さんはなんと見ていたんですよ!

新井 『11PM(イレブン・ピーエム)』というテレビ番組があったんです、生放送の番組が。大橋巨泉が司会をしていて、具体的なコーナーの名前は忘れましたが、そこに伊丹さんが登場して、せいぜい5分くらいの短編を上映した。「二日酔の虫」というタイトルだったかどうかは記憶にないんです。
場面は自宅の洗面所から始まる。役者は伊丹さん本人。つまり誰かがカメラを回しているわけですね。そして松家さんが言ったような場面が長回しで映されるわけです。
紐みたいなものがどんどんどんどん頭から伸びてくるんですよね。外に引っ張りだすんだけど、収拾がつかないわけです。「伸びる伸びる」みたいなことを言って、今度は伊丹さんが引っ張り出しながら洗面所を出て、外に出て行くんですよ。

講演会の様子

松家 あ、そうなんですか?
新井 そうなんです。外に出て行って、公園らしきところまで歩いて行って、紐を出し切っておしまい、というような(場内笑)。
僕は中学生ぐらいだったと思うんですが、これはなんだ! というショックを受けました。

松家 今みたいにYouTubeも無ければ、ビデオも無いわけですから、一回だけ見た記憶がそこまで残っているというのは、かなりのインパクトだったわけですね。
新井 上がってないのかな?YouTubeに。
松家 もちろん上がってないです。
新井 『11PM』なんて、子どもが見ちゃいけない俗悪番組でしたから(場内笑)。たぶん親には気づかれないようにテレビのある居間に行って、音も小さくして、こっそり見ていたんだと思うんです。
松家 かなり露出度の高い女性も出てくるし、『漫画讀本』のテレビ版みたいなところありましたよね……そんなものばっかり見ていたんですか(場内笑)?
新井 そんなものばっかりって(笑)。いや、だけどそういうものから、ものすごく吸収をしたのは間違いないですね。
松家 『漫画讀本』の車内吊りを、「二日酔いの虫」の伊丹十三がやっているというのは、もちろんわかってなかったわけですね。
新井 わかってなかった。「二日酔いの虫」に映っている実写の伊丹さんはめちゃくちゃかっこいいんですよ。朝起きて寝ぼけ眼で、「頭が痛い」とか呟きながら、頭のなかから紐みたいなものをどんどんどんどん引っ張りだすというのは、もう完全にアバンギャルド。お酒を飲む年齢になっていたわけじゃないし、実感はもてなかったものの、少年は映像的にたいへんなショックを受けたわけです。うちの母方の実家は、酒屋なんですけどね(場内笑)。
松家 あ、そうなんですか。
新井 ひらめきをそうやって映像にしてしまう。当時の視聴者に驚きを与える。でも、そういう思いつきでつくるものって、普通だと時間が経てば古くなりますよね。10年も20年ももたない。でも伊丹さんのエッセイも、そういう遊びも古びることがないのはなぜだろうと、記念館を巡りながら考えていたんですよ。本当に自分が好きなことだけをやっている、という頑丈さからくるのか、それとも感覚的に見えるものがじつは本質をついているから古びることがないのか。それはまだわからない。僕にとっては謎なんです。今回記念館に来させていただいて、宿題を与えられたみたいな感じがします。
雑誌って、ややもすると明日にはもう古くなるメディアだと思うんです。それを僕らは、1週間2週間、1ヶ月経っても古びることがないように編集したいと思うんですが、続けていくことでしか雑誌は更新されていかないんですね。一冊出しただけでは新しくはなっていかない。そのことも、考えさせられました。だから僕は雑誌編集者として、伊丹さんの凄みというのはまだわからないのかもしれない。そのことを自分としてはすごく知りたいと思いました。

講演会の様子

松家 伊丹さんの顔は「十三」あるということで、この記念館の常設展示はできているわけですけど、そのうちの一つに、編集者としての仕事があります。
伊丹さんの編集能力は、たぶん雑誌の編集にとどまらないものだったんだと思います。たとえばテレビ番組をつくること、コマーシャルを作ること、すべてに編集の要素があると思うんですね。映画も、一旦撮った長いフイルムをどう切って編集するかという、最終的な作業があるわけですし。「聞き書き」の天才と自称していて、それもまったくそのとおりなんですが、これも編集能力といっていい。伊丹十三という人の本質には、「いかに物事を編集するか」という特別な能力があったんじゃないか、と思うんです。
今回、新井さんは記念館の展示の、いろんなポイントで長時間立ち止まっていたんですけど、僕の印象でいちばん滞在時間が長かったのは、『mon oncle(モノンクル)』という雑誌の編集長時代の、「これから『mon oncle』という雑誌を作ります」という伊丹さんの案内文の入ったパンフレット、我々の言い方でいうと「媒体資料」の展示のところだった気がします。
雑誌に広告を出してくださる方や、取り扱ってくれる書店に雑誌を知ってもらうための資料。伊丹十三賞の選考委員、イラストレーターの南伸坊さんは、途中から『mon oncle』のスタッフに近い形で参加するんですけど――その南さんが、「こういう雑誌を作りますよと説明する、伊丹さんが作ったパンフレットがあって、それがね、ものすごくよくできていたの。これはもうその雑誌が面白くないはずがない、と思うしかない出来でね」と何年も前におっしゃったことがあるんです。それを僕は残念ながら見ていない。悔しい。見たい見たいと思っていたら、今回それが企画展で展示されていたわけです。新井さんもそこにへばりついて、ずーっと読んでいましたね。

新井 驚いたことに、今でもまったく通用するコンセプトなんですよ。
一番僕が印象に残ったのは、「話し言葉で伝える」という姿勢を打ち出していたこと。世の中のあらゆる事象を精神分析的にとりあげる雑誌、それをどう伝えるか。伊丹さんは「話し言葉」のスタイルで通す雑誌にしようということを最初から決めていたんですね。
今では、『POPEYE(ポパイ)』にしても『BRUTUS(ブルータス)』にしても、「話し言葉で伝える」という雑誌が主流になっていると思うんですが、81年当時は、充分に斬新でした。
『mon oncle』のデザイン、レイアウトは、81年当時、創刊号を買ってものすごくショックでした。イラストでも写真でも大胆に大きく使っていたんです。たとえば僕たちが雑誌を開きますよね。その開いた状態を僕らは「見開き」というんですが、その見開きを見た時のモダンな感じ。これは何か違うものだぞという、今まで僕らが見て、馴染んできた文化とは違う、「新しい風が吹いたな」という感じがしたんですよね。
大手の出版社の媒体資料って、どちらかというと営業的なものが優先するんです。広告クライアントの人に、「どういう年齢層がターゲットで、その人たちにはどんな志向があるのか。我々の雑誌はそこに向けてつくっています」と伝える。広告料金はいくらか、創刊号の部数は、のようなことが媒体資料の主な役割なんですよね。そうではなくて、雑誌を創刊する思想をはっきりと伝えるというのは、『mon oncle』以降、ほとんど見たことがない気がします。そもそも『mon oncle』以前にもあったのかどうかわからない。とにかく新鮮だったですね。

松家 伊丹さんてどういう人なのかって、未だに私の中ではわからない部分がたくさん残っているんですけど、今の新井さんの話を伺っていて思ったのは、やっぱり伊丹十三という人は、伝えたいことがあるんですよ。もう明らかに。でもその伝えたいことを、「どうやって伝えるか」ということに、同じくらいの熱量で取り組んだ人だったんじゃないかと思うんですね。文字の大きさをどうしたらいいかとか、書体をどうすればいいのかとか、写真をどう見せるかとか。映画も同じだったと思うんですね。あるテーマをもとに映画を作るというとき、それをどんなキャラクターの登場人物がどう演じて、物語をどう構成し、展開してゆくか、という「HOWの部分」へのこだわりが、他の人より何倍も頭を使う人だったという気がするんです。
新井 伊丹さんのエッセイを読んでいてもその部分はありますよね。「どういう生き方をするのか」というのがまず前提にあって、だとすればその人は「どうふるまうべきなのか」ということを明快にしている感じがします。
今回、記念館の中を歩いてみて、ひとつひとつそれが紐解かれてゆくような、分け入るような感じがしたんです。その楽しさと、ちょっと怖さもあった。もう一回、僕に対して宿題が課せられたような怖さがありました。「編集者として君はどうなのか」と問われている感じが……伊丹さんの書くものは、絶えず問われる感じがあって。だからヒリヒリするんですよ。本当にヒリヒリするんだけど、それがちょっと嬉しいというような。

松家 伊丹さんのデビュー作『ヨーロッパ退屈日記』の衝撃はいろいろあります。書かれてあることが、初めて知るものがほとんどであったということ、それを難しい言葉ではなく、伊丹さんが目の前で語っているような、語り口調が伝わる形で書かれた本だったということ。伊丹さんが登場して以降のエッセイというものを、明らかに変えたんですよね。「話し言葉」という要素は、伊丹さんを考えるうえではとても大きいですね。
新井 ですよね。あと、旅の仕方を圧倒的に変えたんじゃないかという感じもするんです。
旅ってもうちょっと、なんだろうな……自分の人生と重ねたり、もっと教育的なものとして働くというか。小田実のアメリカ滞在記、『何でも見てやろう』はその代表になるものかもしれません。安岡章太郎さんの旅もそうですし、ひょっとしたら沢木耕太郎さんの旅もそうだったかもしれない。だけれど、伊丹さんの『ヨーロッパ退屈日記』を読んでいると、日本人でありながらヨーロッパの人と対等な視線である、というのは、それまで無かったものじゃないか。伊丹さんの旅というのは、ほかの誰とも違うんじゃないかと、昨日思ったんです。

松家 なるほど。

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