「糸井重里氏によるトークショー」(3)
2009年10月14日 / 松山市総合コミニュティセンター キャメリアホール
講演者 : 糸井重里氏(コピーライター / 『ほぼ日刊イトイ新聞』編集長)
聞き手 : 松家仁之氏(新潮社『考える人』、『芸術新潮』編集長)
【聞き書き】
松家 伊丹さんの話しことばのスタイルも、糸井さんの話しことばのスタイルも、文章のスタイルとしてだけではなくて、もうひとつ共通点があると思うんです。
伊丹さんはある時期、ものすごく人に会って聞き書きをして、「自分は聞き書きの天才である」というふうにおっしゃってた時期があるんですけれども、考えてみると、『ほぼ日』の今のコンテンツっていうのも、人に会って話を聞くっていうのが、とても多いですよね。そこも伊丹さんと共通する点なんじゃないかな、って、思うんですね。
ものを書く人って、どっちかっていうと、自分の言いたいこと、頭に浮かんだことを書くので精一杯っていうか、人のことなんて聞かないで自分の世界をひたすら書いていく、っていうタイプがやっぱり多いと思うんです。だけど、人に会って、人に話を聞いて、それをまた話しことばで書いていくっていう人は、意外といそうでいない。私の中では、ある時代は、伊丹さんがそれを全面的に引き受け、ある時期以降は、それを糸井さんがなさってるっていうように見えなくもないんですけど、そのあたりは、どういう意識でいらっしゃるんですか?
糸井 それは、「聞き書き」っていうことばそのものが、伊丹さんの周囲にあったことばを拾ってきた気がしますね、ぼくは。
ぼくのメディアに登場するデビューは、小さく2度続けてあったんですね。
ひとつは…無名の誰かさんがみんなが知ってる誰かさんになるためには、たとえば、直木賞を獲ったとか、そういう道もありますし、大事件を起こしたとか、いろいろありますけれども、ぼくの場合には、コピーを除いて言うと、「TOKIO」っていう沢田研二さんの歌の作詞をしたことだったと思うんです。
まぁ偶然のように始まった仕事なんですけど、「TOKIO」っていう歌が流行ったときに、「この変なものの作詞をしたのは誰だ」ってことで、呼んでみようっていう人が増えたことが、ぼくが世の中の人に知られるひとつのきっかけになったと思う。
それからもうひとつが、「TOKIO」を出すちょっと前に、矢沢永吉っていう人の本を書かないかって言われて、この中で読んだ人いるかも知れないですね、『成りあがり』っていう本があるんですけど、その本を頼まれたんですね。
で、矢沢永吉が出す本をゴーストライターとして書くっていう頼まれ方はしなかったんですよ。「永ちゃんに取材して、それを本にしたいんだ」と。ゴーストライターっていうのは、その当時の頼んできてくれた編集者があんまり好きじゃなかったんで、名前をちゃんと出してやろう、というかたちで、たしか「聞き書き・構成」って書いたのかな、とにかく、ぼくの名前もちっちゃく出て。
で、矢沢永吉っていう人の巡業についていって、テープをまわしておいてあとでテープをおこして、それをまとめて、っていう、まさしく聞き書きの仕事が、ぼくの、いわばデビュー作なんですね。
松家 あ、そういうことになるんですか。
糸井 はいはい。
ですから、その前に、あのー変な…『スナック芸大全』という本は出したんですけど。
松家 買いました。
糸井 あそうですか(笑)。あれもぼくのちっちゃな原点、だと思うんですね。
今思えば、あれもだからもうあの前書きにもふざけて書いたんですけど、民間伝承を集めてきたっていう形のあの民俗学みたいな本ですから。その意味では、あれもひとつなんですけど。
ぼくは聞き書きからスタートしてる、ってとこがあって、得意かどうかは意識はできなかったですけど、やったことある仕事ってやっぱり、その、経験が重なってますから、結構ノウハウがつもるんですよね。それのおかげでコピーの仕事をするときも、誰かに会いに行って1本作るみたいなのが、好きな仕事になったんです。
それから、もうひとつやっぱり、自分がないといいますか…ないんですよね、オレがこうだとかあんまり言いたくないんですよね。
松家 そこもねぇ、伊丹さんと同じだと思うんですよ。
糸井 そうですね。伊丹さんもないですね。
うるさいこと言うわりには、ルールについて語ってるだけで、自分のことじゃないんですよね。
松家 伊丹さんの話しことばのスタイルも、糸井さんの話しことばのスタイルも、文章のスタイルとしてだけではなくて、もうひとつ共通点があると思うんです。
伊丹さんはある時期、ものすごく人に会って聞き書きをして、「自分は聞き書きの天才である」というふうにおっしゃってた時期があるんですけれども、考えてみると、『ほぼ日』の今のコンテンツっていうのも、人に会って話を聞くっていうのが、とても多いですよね。そこも伊丹さんと共通する点なんじゃないかな、って、思うんですね。
ものを書く人って、どっちかっていうと、自分の言いたいこと、頭に浮かんだことを書くので精一杯っていうか、人のことなんて聞かないで自分の世界をひたすら書いていく、っていうタイプがやっぱり多いと思うんです。だけど、人に会って、人に話を聞いて、それをまた話しことばで書いていくっていう人は、意外といそうでいない。私の中では、ある時代は、伊丹さんがそれを全面的に引き受け、ある時期以降は、それを糸井さんがなさってるっていうように見えなくもないんですけど、そのあたりは、どういう意識でいらっしゃるんですか?
糸井 それは、「聞き書き」っていうことばそのものが、伊丹さんの周囲にあったことばを拾ってきた気がしますね、ぼくは。
ぼくのメディアに登場するデビューは、小さく2度続けてあったんですね。
ひとつは…無名の誰かさんがみんなが知ってる誰かさんになるためには、たとえば、直木賞を獲ったとか、そういう道もありますし、大事件を起こしたとか、いろいろありますけれども、ぼくの場合には、コピーを除いて言うと、「TOKIO」っていう沢田研二さんの歌の作詞をしたことだったと思うんです。
まぁ偶然のように始まった仕事なんですけど、「TOKIO」っていう歌が流行ったときに、「この変なものの作詞をしたのは誰だ」ってことで、呼んでみようっていう人が増えたことが、ぼくが世の中の人に知られるひとつのきっかけになったと思う。
それからもうひとつが、「TOKIO」を出すちょっと前に、矢沢永吉っていう人の本を書かないかって言われて、この中で読んだ人いるかも知れないですね、『成りあがり』っていう本があるんですけど、その本を頼まれたんですね。
で、矢沢永吉が出す本をゴーストライターとして書くっていう頼まれ方はしなかったんですよ。「永ちゃんに取材して、それを本にしたいんだ」と。ゴーストライターっていうのは、その当時の頼んできてくれた編集者があんまり好きじゃなかったんで、名前をちゃんと出してやろう、というかたちで、たしか「聞き書き・構成」って書いたのかな、とにかく、ぼくの名前もちっちゃく出て。
で、矢沢永吉っていう人の巡業についていって、テープをまわしておいてあとでテープをおこして、それをまとめて、っていう、まさしく聞き書きの仕事が、ぼくの、いわばデビュー作なんですね。
松家 あ、そういうことになるんですか。
糸井 はいはい。
ですから、その前に、あのー変な…『スナック芸大全』という本は出したんですけど。
松家 買いました。
糸井 あそうですか(笑)。あれもぼくのちっちゃな原点、だと思うんですね。
今思えば、あれもだからもうあの前書きにもふざけて書いたんですけど、民間伝承を集めてきたっていう形のあの民俗学みたいな本ですから。その意味では、あれもひとつなんですけど。
ぼくは聞き書きからスタートしてる、ってとこがあって、得意かどうかは意識はできなかったですけど、やったことある仕事ってやっぱり、その、経験が重なってますから、結構ノウハウがつもるんですよね。それのおかげでコピーの仕事をするときも、誰かに会いに行って1本作るみたいなのが、好きな仕事になったんです。
それから、もうひとつやっぱり、自分がないといいますか…ないんですよね、オレがこうだとかあんまり言いたくないんですよね。
松家 そこもねぇ、伊丹さんと同じだと思うんですよ。
糸井 そうですね。伊丹さんもないですね。
うるさいこと言うわりには、ルールについて語ってるだけで、自分のことじゃないんですよね。
【自分がない】
松家 伊丹さんは、あるエッセイの中で「自分は空っぽの容れ物にすぎない」っておっしゃって、すごく有名なフレーズですけど、その感じにも今の糸井さんのお話はつながると思うんです。それから、伊丹さんが50歳で映画を撮ろうと決めるまでの仕事っていうのは、基本的に全部依頼された仕事だったと思うんですよ。
最初のエッセイもそうだったし。俳優の仕事ももちろん、全部、依頼されたものに反応してなさっていた仕事です。
それで、糸井さんの『ほぼ日』って50歳の頃ですよね?
糸井 えー49、50ですね。
松家 『ほぼ日』は自分でなさろうと思って始めた仕事であることは間違いないと思うんですけど、それ以前のお仕事って、意外と、言われて引き受けてやったっていう仕事が多くなかったですか?
糸井 多く…ではなく全部じゃないですか? 自分から「これがしたい」と思ったことは、基本的にはないんですよ。
いちばん理想意的な仕事の形は…終わってみればってやつですけど、いちばんいいのは、まず興味があることなんですね。何に対してでも。
たとえば、このマイクならマイクにぼくが興味があって、「マイクってのは面白いな」ってと思うところからスタートするんです。ですから、自分がないとはいうものの、マイクの受け手としてはオレはいるんですね。で、「オレずっと見てんだけど、面白い。5年間ぐらいずっとオレはマイク見てんだけど、あらゆる意味でマイクは面白いな」と思う。
で、たとえば松家さんみたいな人に会ったときに、「松家さん、オレ、マイクって面白いとずっと思ってるんだけど、誰かがマイクについて本書かないかなぁ」って言うんですよ。
「こういう切り口があるんだよ、マイクには。元々こうでこうで、ここまではオレも分かるんだけど、それをオレは本にするつもりはないんだよ。だけど読みたいんで、松家さん誰か思いつかない? それ」って言うと、松家さんが「あーなるほど」って言ってくれるんですね。で、「よ~く考えたんですけど、糸井さんそれ自分でやりませんか?」って言い出すんですよ。
そうすると、「えー? 他にいないの?」って言いながら引き受けるっていう仕事がぼくはいちばん多いんです。
上手くいった仕事はだいたいそれなんです。ですから、なり手はいないんだけど誰かやればいいのにっていう仕事をやったのが、ぼくは、だいたいパターンとして全部上手くいった仕事です。
松家 なるほど。そうやって糸井さんが引き受けた仕事で、私みたいに50歳以上の人はみんな知ってるんじゃないかと思うんですが、(お客様に)『週刊文春』で「萬流(まんりゅう)コピー塾」って連載があったのを覚えてらっしゃいます?
糸井 若い人は知らないでしょうね。
松家 若い人は知らないと思うんですけど、(お客様に)『ほぼ日』で言うと「言いまつがい」っていう、本にもなった大人気コンテンツがあるじゃないですか。あれの原点みたいなものが「萬流コピー塾」なんですね。これもものすごい人気の連載シリーズで、あれも糸井さんにとっては依頼された仕事だったわけですね。
依頼された当初は「コピーライターになる技術とか技みたいなものを教えるような連載はどうですか?」っていうようなものだったんでしょうか?
糸井 うん、「コピーというのが流行っているから、コピーを教えるっていうのを何か面白おかしくできないですかね」みたいに言われたんですけど、コピーは仕事だから、まず、そんな面白おかしくは、ほんとはできないんですよ。
今でこそこうやって笑ってますけど、ぼくは、弟子っていう立場の人に対してはものすごく厳しいんですよ。社員にはやさしいんですけど。
松家 弟子には厳しい。
糸井 弟子には厳しいんですよ。だから、社員を弟子にしないようにものすごい気をつけているんです。「そのぐらいできなきゃどうすんだー!」みたいなことは絶対思わないように気をつけてますし、自分にもちょっとこう、厳しいとこがあるんですね。
コピーって頼まれてやることで、目的のあるもの作ってるもんですから、週刊誌パラパラめくってるところで「どれどれ?」っていうような面白いものにはなんないんですよ。
毎週毎週コピー教室なんかできるはずがないと思ったんで、これは有無も言わせずオレが偉いというフィクションを1回作って、で、ぼくが家元っていう立場になって思いっきり上からの、今でいう“上から目線”っていうやつですよね、「オレは無条件に偉いから、お前らはもう文句が言えないんだ」っていうドラマの舞台にして連載をしたらできるって言って引き受けた…んですよね。
だから企画が、持ち込まれた企画がボツだったんです、ぼく的に。で、ボツだけど、こうすればいいんじゃないのかなーって、つい手伝っちゃった。
そしたら「じゃあやれますね」ってなって、「はい」って言ってやっちゃった(笑)。
松家 あれはほんとうに面白かったですよね。
糸井さんの「萬流コピー塾」に何度も入選していくと、最終的には「師範」でしたっけ、だんだん偉くなっていくんですよね?
糸井 えーと、「萬斗七星」っていうわけの分からないところまでたどりつくんですけどね。
松家 そういう上級者になると、糸井さんの「糸井重里」っていう四つの漢字のうちのどれかを、その人の名前のどこかに入れちゃう。実際にいちばん人気だった人に小林秀雄という、文芸批評家と同姓同名の人がいて、その人は「小林“井”秀雄」になったんですね。
糸井 はい。あげちゃうの。だからたとえば…なんだろな、「石坂浩二」だったら「石“里”坂浩二」とかね、“里”の字を入れて…なんで今「石坂浩二」っていうたとえが出たんでしょうね。すっごかったですね、今。はい。
松家 伊丹さんは、あるエッセイの中で「自分は空っぽの容れ物にすぎない」っておっしゃって、すごく有名なフレーズですけど、その感じにも今の糸井さんのお話はつながると思うんです。それから、伊丹さんが50歳で映画を撮ろうと決めるまでの仕事っていうのは、基本的に全部依頼された仕事だったと思うんですよ。
最初のエッセイもそうだったし。俳優の仕事ももちろん、全部、依頼されたものに反応してなさっていた仕事です。
それで、糸井さんの『ほぼ日』って50歳の頃ですよね?
糸井 えー49、50ですね。
松家 『ほぼ日』は自分でなさろうと思って始めた仕事であることは間違いないと思うんですけど、それ以前のお仕事って、意外と、言われて引き受けてやったっていう仕事が多くなかったですか?
糸井 多く…ではなく全部じゃないですか? 自分から「これがしたい」と思ったことは、基本的にはないんですよ。
いちばん理想意的な仕事の形は…終わってみればってやつですけど、いちばんいいのは、まず興味があることなんですね。何に対してでも。
たとえば、このマイクならマイクにぼくが興味があって、「マイクってのは面白いな」ってと思うところからスタートするんです。ですから、自分がないとはいうものの、マイクの受け手としてはオレはいるんですね。で、「オレずっと見てんだけど、面白い。5年間ぐらいずっとオレはマイク見てんだけど、あらゆる意味でマイクは面白いな」と思う。
で、たとえば松家さんみたいな人に会ったときに、「松家さん、オレ、マイクって面白いとずっと思ってるんだけど、誰かがマイクについて本書かないかなぁ」って言うんですよ。
「こういう切り口があるんだよ、マイクには。元々こうでこうで、ここまではオレも分かるんだけど、それをオレは本にするつもりはないんだよ。だけど読みたいんで、松家さん誰か思いつかない? それ」って言うと、松家さんが「あーなるほど」って言ってくれるんですね。で、「よ~く考えたんですけど、糸井さんそれ自分でやりませんか?」って言い出すんですよ。
そうすると、「えー? 他にいないの?」って言いながら引き受けるっていう仕事がぼくはいちばん多いんです。
上手くいった仕事はだいたいそれなんです。ですから、なり手はいないんだけど誰かやればいいのにっていう仕事をやったのが、ぼくは、だいたいパターンとして全部上手くいった仕事です。
松家 なるほど。そうやって糸井さんが引き受けた仕事で、私みたいに50歳以上の人はみんな知ってるんじゃないかと思うんですが、(お客様に)『週刊文春』で「萬流(まんりゅう)コピー塾」って連載があったのを覚えてらっしゃいます?
糸井 若い人は知らないでしょうね。
松家 若い人は知らないと思うんですけど、(お客様に)『ほぼ日』で言うと「言いまつがい」っていう、本にもなった大人気コンテンツがあるじゃないですか。あれの原点みたいなものが「萬流コピー塾」なんですね。これもものすごい人気の連載シリーズで、あれも糸井さんにとっては依頼された仕事だったわけですね。
依頼された当初は「コピーライターになる技術とか技みたいなものを教えるような連載はどうですか?」っていうようなものだったんでしょうか?
糸井 うん、「コピーというのが流行っているから、コピーを教えるっていうのを何か面白おかしくできないですかね」みたいに言われたんですけど、コピーは仕事だから、まず、そんな面白おかしくは、ほんとはできないんですよ。
今でこそこうやって笑ってますけど、ぼくは、弟子っていう立場の人に対してはものすごく厳しいんですよ。社員にはやさしいんですけど。
松家 弟子には厳しい。
糸井 弟子には厳しいんですよ。だから、社員を弟子にしないようにものすごい気をつけているんです。「そのぐらいできなきゃどうすんだー!」みたいなことは絶対思わないように気をつけてますし、自分にもちょっとこう、厳しいとこがあるんですね。
コピーって頼まれてやることで、目的のあるもの作ってるもんですから、週刊誌パラパラめくってるところで「どれどれ?」っていうような面白いものにはなんないんですよ。
毎週毎週コピー教室なんかできるはずがないと思ったんで、これは有無も言わせずオレが偉いというフィクションを1回作って、で、ぼくが家元っていう立場になって思いっきり上からの、今でいう“上から目線”っていうやつですよね、「オレは無条件に偉いから、お前らはもう文句が言えないんだ」っていうドラマの舞台にして連載をしたらできるって言って引き受けた…んですよね。
だから企画が、持ち込まれた企画がボツだったんです、ぼく的に。で、ボツだけど、こうすればいいんじゃないのかなーって、つい手伝っちゃった。
そしたら「じゃあやれますね」ってなって、「はい」って言ってやっちゃった(笑)。
松家 あれはほんとうに面白かったですよね。
糸井さんの「萬流コピー塾」に何度も入選していくと、最終的には「師範」でしたっけ、だんだん偉くなっていくんですよね?
糸井 えーと、「萬斗七星」っていうわけの分からないところまでたどりつくんですけどね。
松家 そういう上級者になると、糸井さんの「糸井重里」っていう四つの漢字のうちのどれかを、その人の名前のどこかに入れちゃう。実際にいちばん人気だった人に小林秀雄という、文芸批評家と同姓同名の人がいて、その人は「小林“井”秀雄」になったんですね。
糸井 はい。あげちゃうの。だからたとえば…なんだろな、「石坂浩二」だったら「石“里”坂浩二」とかね、“里”の字を入れて…なんで今「石坂浩二」っていうたとえが出たんでしょうね。すっごかったですね、今。はい。
【引き受け仕事】
松家 …っていうふうに、向こうからやってきたものを、「バン」ってひっくりかえして寝技をかけて、違うかたちにもっていっちゃうところは、実は、伊丹さんもそうで、たとえばテレビコマーシャルにしてもそうだし、テレビ番組にしてもそうだし、たとえばワイドショーの司会なんかやったとき、「俳優でエッセイも書いて人気の伊丹十三にしようか」みたいな、きっと簡単な企画会議で通ったものを、ワイドショーの概念をひっくり返しちゃうような演出でやったじゃないですか。テレビコマーシャルもしかりです。
そのやり方も結構共通しているなって、思うんですけどね。
糸井 あの…引き受け……つまんないことをやってるときの自分を想像すると、ぞっとするんですよ。
で、伊丹さんの気持ちはちょっと想像できないんですけど、ぼくは単純にがまんの悪い子で、「ヤだなー」と思いながら何かやってると、ダメになっちゃうんです。
「言われたとおりのことをやってれば必ず終わるんだから」っていう時間も人生の中にはあるんだってことは分かるんですけど、できるかぎりダメで、ちょっとでもダメなんです。ですから、やることが決まってる場合には「直してこうすれば大丈夫かもしれない」っていうところまで、自分のために提案を作り変えるんですね。そのことによって動機が維持できる、っていう、まったく自分のためですね。ですから、今の「萬流コピー塾」なんかは、基本的な骨組みの段階で企画を変えたんです。
毎週やるっていうことでは、司会をするテレビ番組を、長ーい目で見ると、3回引き受けてんですけど、ぜんぶ、1回ずつ企画会議にまじめに参加して、ディレクターとかプロデューサーといっしょに、企画会議がいちばん面白かったっていうくらいに、話をしてます。だから本番の時には大丈夫、って思って作ってます。
松家 そういう仕事をずっとなさってきて、今ちょっと振り返ると、糸井さんのいちばん有名なコピーのうちのひとつに、1982年の西武デパートの「不思議、大好き」っていうのがあって、それからその翌年にも、やはり西武デパートの、ウディ・アレンを使った「おいしい生活」っていうのがありますよね。
で、伊丹さんが、引き受け仕事ではなく、初めて自分でやろうっていうふうに始めた映画監督の仕事は、『お葬式』がデビュー作でした。これが84年だったんですね。
この82年、83年、84年っていうのは、これからバブルが始まるっていう、バブル前夜の年代なんですけれど、このあたりの頃っていうのは、糸井さんはまだ受注仕事が中心だったと思いますが、どういう感じで仕事をなさってました?
糸井 んー…「どうなりたい」っていうビジョンの、もう、まったくない人間だったんで、やりたければやるし、余裕なくてうまく行かないっていうのを引き受けるつもりはなかったんで、何でも引き受けるってことはしないように気をつけてましたけど、できるかぎりやろうと思ってました。
現代社会って、やっぱり、「あいつだよ」ってなったときにはドドドドっとみんなが、あの、何の関係もなく、頼んできますよね。
そういう状況ができて、まぁ、あの、悪い言い方すれば、「消費される」っていう局面に必ずなるわけで、「消費されてる」気持ちもちょっとあったんです。で、「できるでしょ~」って言われると、やっぱりまだ子供ですから、「できないです」って言うのは言えないんです。そうするとやっぱり、ちょっとだけ背伸びして仕事してるって状況で、ひとつずつひとつずつやってれば、何かこう、走ってる感じがして、顔に風が当たりますから、ひんやりして気持ちいいんですよ。