伊丹十三賞 ― 第1回受賞記念講演会 採録

「糸井重里氏によるトークショー」(2)

2009年10月14日 / 松山市総合コミニュティセンター キャメリアホール
講演者 : 糸井重里氏(コピーライター / 『ほぼ日刊イトイ新聞』編集長)
聞き手 : 松家仁之氏(新潮社『考える人』、『芸術新潮』編集長)

【“俳優”伊丹十三と話しことば】
松家 記念館のことをここでちょっとおさらいしますと…常設展示のところに伊丹十三の「13の顔」のコーナーがありますね。
この13をあげてみましょうか。一番目が「池内岳彦」、これ通称ですね、戸籍上は「池内義弘」っていうのが本名ですけど。それから、二番目が「音楽愛好家」、三番目が「商業デザイナー」、四番目が「俳優」、五番目が「エッセイスト」、六番目が「イラストレーター」、七番目が「料理通」、八番目が「乗り物マニア」、九番目が「テレビマン」、十番目が「猫好き」、十一番目が「精神分析啓蒙家」、十二番目が「CM作家」、十三番目が「映画監督」。
というふうに、伊丹さんのさまざまな顔が展示されています。若い人だと、この十三番目の「映画監督」しか知らないっていう人、結構多いんですね。私のいる編集部でも、「映画監督としての伊丹十三しか知りませんでした」っていう若い人がいました。
糸井さんにとっては、この、13の顔をもつ伊丹さんの中では、どの顔にいちばん接してきたというか、意識していらっしゃいましたか?

糸井 いくつかあると思いますけど…俳優であるってことは、なんか、前提な気がしますね。
「俳優の伊丹十三が何々をしている」っていうかたちで、「エッセイスト」だったり、ぼくがお会いするきっかけになったのが、雑誌編集長としての伊丹さんだったり…

松家 『モノンクル』ですね。
糸井 そうですね。で、その後にまた、CMに出演したり、作家である部分があって…つまり、ベースは「俳優」だと思って見ていましたが、「エッセイスト」の部分とか、「企画をする人間である」っていう部分が、とても大きかったと思うんです。
松家 なるほど。伊丹さんのエッセイはお読みになっていました?
糸井 えーっと、なにせ熱心なファンの方がたくさんいらっしゃいますから、そういう人からしたら読んでない方かもしれないんですけど、ある時期、まとまったエッセイがドンドンドンと出た時期があって、『小説より奇なり』とか『女たちよ!』とか、あのあたりのときは、次々に出るごとに、やっぱり、買って読むということをしてましたね。
松家 ぼくは読み手として、十代の頃から伊丹さんのエッセイを夢中になって読んできたんですけど、やっぱり糸井さんの本も最初から読んでいて、伊丹さんのエッセイと共通するところがあるなと思っていたんですね。人が話している口調をそのまま生かしたことば、話しことばをなんともうまく再現されてるところが、すごく共通してると思ったんです。
そのあたりの影響を受けたりしたことっていうのはあるんでしょうか。

糸井 もう、あの、(影響を)受けたというより、真似っこだと思いますね。
あの…話しことばがもともと好きだった、っていうことはあるんです。育ちがやっぱり、ぼくは落語・漫才ですから、「育ちが」ってのは変ですけど(笑)、つまり、ぼくは年齢が、ここにいらっしゃる方の中でも結構上のほうだと思うんで、テレビがない時代から生きてるわけです。
家の中にはラジオがあって…「娯楽」ってことばにはピンとこないかもしれませんけど、「家庭の娯楽」ってのはラジオだった時代があるんですよ。で、ラジオから聞こえてくる連続ラジオドラマみたいなものとか、あるいは、親が聞いている番組を子供も一緒に聞いてしまう。
その中で、落語、つまり、耳から聞こえてくることばっていうものに対して、やっぱり、面白いと思ったのが、ぼくを作った原料だっていう気がするんですね。
書きことばは、書きことばとして味わえるようになるのは、だいぶ後年ですから、あの…いちばんやわらかくてぷよぷよした時代にしみこんだものっていうのは耳からのことばで、どっかに、書きことばっていうものに対して、外国語をしゃべれる人に対する憧れのようなものがあったと思います。
これはやっぱり、子供ほど保守的で、ある種の教養主義みたいなものは若いときのほうがありますから、難しいことばを使える人はカッコよく見えたり、っていう意識が、ぼくはぼくなりにきっとあったんだと思います。浅かったんですけどね。
書きことばの方にも、首は突っ込むんですけど、「分かんない」っていうことを言うのは、なかなか難しいです。その…本を読んで、「何書いてあるか分かんない」っていうことは、人に言えないんですね。
ここの会場にいらっしゃる方はどうか知りませんけども、ぼくは正直言って、1冊の本を読んだときに、ちょっと難しくなるともう分かんないんですよ。あの、そんなことを言うとなんか、「バカか」と思われるかも知れませんけど(笑)、ほんっとに分かんないんですよ。
まぁ、今はもう自分も古株になっちゃったから、「そういうときは書いてるヤツも分かんないんだよ」って言ってるんですけど、ハハハ、これはいいことばなので、覚えとくといいんですよ(笑)。
「お前が分かんないのは、書いてるヤツも分かんないんだ」って、これは結構ほんとだと思います。
で、書きことばってのは、やっぱり、そういうマジックがあって、あの、なんだろな、理解とは別のところに書けちゃうんですよ。ぼくもそういう余韻のあるものっていうのを、全然書かなかったかっていうと、書いた覚えもあるんですよ。
からだと、からだのサイズにピタっと合ったことばの使い方じゃないところに、書きことばっていうものがある、っていう違和感を感じて生きてたときに、「オレが分かるのは落語なんだ」っていうのはあったわけですよね。
だから、その後の植木等さんだとかのドラマを見てたりテレビを見てたりしてるときには、全部オレは分かる、だけど、本になったときに分かんなくなっちゃった、っていうことが、ずーっと誰にも言わないコンプレックスとしてあったときに、伊丹さんの、しゃべりことばを文章にするっていうものがあらわれたんですよ。
それまでにもあったはずなんです。つまり、座談会だとか対談の記事がいくらでもあったはずですから。それはしゃべりことばだったはずなんですけど、それまでにやってたのとまったく違って、しゃべりことばの中にある冗長性といいますか、無駄な小骨だとか…魚でいえば小骨だとかはらわたとか血合とか、そういう部分を、わざと、飾りのようにでも残しといて、実は読みやすくて整理された文章に直してるのは後で分かるんですが、しゃべりことばのかたちで書いてあると、「これ…“ある”んだ!」って思ったら、何だろう…興奮したんですよね。
読んでいるリズムは、明らかにほんとはしゃべってるリズムと違うんですけど、「この人はやったんだな」っていうのを、若い自分が、こう…なんていうんだろうなぁ、「発見して」というと大袈裟ですけど、まぁ、「そうかぁ!」と思って。で、やりたくてやりたくてしょうがなくなってきたんですよ。
でも、文章を書いて人に見せる場所っていうのは、みんなが持ってる時代じゃなかったですから、そのまんまになってたんですよ。
で、自分がちょっとしたものを頼まれるっていうことが、20代半ばぐらいのときに、原稿用紙4枚分ぐらいのエッセイを頼まれるぐらいになって、それはコピーライターとしての仕事としてじゃなくてやってたんですけど、その時に、明らかに書きことばとしゃべりことばをごちゃ混ぜにした文体を、自分で書いたんですね。
それは何がいいかっていうと、ロジックで問いつめていって答えを出すっていうような文章を書かなくても、しゃべりことばだと、「とはいうものの」とか、「ま、そんなこんなで」とか、時間の流れとおんなじような冗長性を間にはさんで「思い」が書けるんですね。で、「論証してみろよ」ってな文章ばっかり書いてる必要はないんでね。
だから、人と人とがことばをやりとりするっていう楽しみは、どの理屈がいちばん正しいかを発見するための時間じゃないわけで、おしゃべりっていう時間が明らかにあるっていう、ね。で、それにあったようなことを自分もできるかもしれないと思ったら、その文体になったんですね。
それは、もう、伊丹さんが、「そんなこんなで」というようなことをぼくらに見せてくれたおかげで。伊丹さんは伊丹さんで先祖がいることはのちに分るんですけども…でも…いやぁ、助かりましたねぇ。オレっていうものを生かす場所が、あの時に「その敷地に三坪ほどあるから、ほったて小屋建てなよ」って言われたぐらいの、そのー…なんだろなぁ、場所をくれたって気がしますね。
だから、影響を受けてたというよりは、場所をくれた人ですよね。

講演会の様子

【広告文体と話しことば】
松家 なるほど。伊丹さんの話しことばのエッセイを読んで、「ああ、これが“あり”なのか」と思ったときっていうのは、糸井さんはもうすでにコピーライターでいらしたってことですか?
糸井 えーと、「ちょいと」コピーライターでしたね。
賞をもらったりっていうのは、キャリアがなくてもできるので、賞をもらったりすることで自分の位置を確かめたくて、そういうことはしてて賞はもらってたんですけど、なにせ勤めたのがちっちゃぁい会社で、4本5本の仕事をまとめてロケに行かないと食い扶持になんないっていうような仕事してましたから。
そこでコピーを書いていましたけど、誰もぼくのことを知らないし、あるいは、代理店だとかプロダクションのおっきいところの人たちとぼくの関係は、もう、まったくありませんでした。

松家 ああ、そうなんですか。
糸井 うん、ぼくは当時の社長と別れて独立してから、のちに「糸井は公営競馬出身だもんな」って言われた(笑)。
つまり、中央競馬出身の人間じゃないんですよね。だから、脚太いし、荒地を走ってたみたいなところがあって。
コピーは書いてたし、コピーっていうのはやっぱり、また別の勉強の仕方がやっぱりあって、伊丹さんとはまた違うところでしゃべりことばを使う、上手な先達がいて、それは、今年亡くなった土屋耕一さんという方です。
ぼくは、コピーライターっていったら誰をおいてもこの人がすべてっていうぐらい、いちばんの人だと思うんです。その人の文章を、広告文体としては意識してました。で、広告文体がしゃべりことばになるのは当然で、セールストークのバリエーションですから、「さてここに、1本のボトルがあるんですが」っていうことばはもうしゃべりことばですよね。
ですから、両側から、雑誌で書かれてる伊丹さんの文章のしゃべりことば、そして、土屋さんが書いた広告のしゃべりことば、っていうのが、ぼくの中で、「ああ、いいんだ、それやって」っていう場所でした。

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