記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2026.08.10 アキラ役に立つ、の巻。

このようなことをこの場で申しあげるのはいかがなものかと思いつつ――

記念館便りを書こうとして何にも思い浮かばない、ということが時々あります。
「う~~ん」とヘヴィに考えてみても、敢えてライトに「えっとーー」と考えてみても、何かが脳に兆す気配なし。
バットを振ったところでボールに当たる気がしない、というよりも、バットの振り方さえ忘れてしまったような気分に陥って、風邪でもないのに脂汗が流れて背筋がゾクゾクします。
(今がまさにそれです。)

あれやこれやの用事に追われたり、人間や洗濯機炊飯器電子レンジ等々に呼ばれたりすると「それどころじゃないんだよ~」と思う一方で、こういう時は、現実逃避的に気がまぎれてしまうんですよね。取り組むべき課題から目をそらさんがために、いつも以上に雑事に勤しんでいるフシも。そうして睡魔がやって来て、一日が終わる、と。

「明日、考えよう」「寝て起きたら何か思いつくだろう」を何日か繰り返していると、自分の中のアイツと目が合うんですなぁ。『日本世間噺大系』に登場する、アキラ。

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アキラというのは、結婚記念日だというのに仕事と偽り"新しい女"とのデートにうつつをぬかしてしまう、実に実にいかんともしがたい男なのでありまして――

 もともとアキラは物事を深く考えるたちではない。アキラに必要なのは一寸先がバラ色であることだけで、そのためには現在がいかに惨めであろうと、バラ色のもう一つその先に暗黒が待ち受けていようと知ったことではない、先のことは先のこと、何とかなるさと多寡をくくるのが常であった。
 幼年期のアキラは、厳格な父親に、叱られどうし(原文ママ)で育った。しかも悪いことに、アキラは、自分が何故叱られているかを一度たりとも理解することがなかったのである。父親の怒りはアキラにとって理不尽な嵐にしか過ぎなかった。結果として、遂には叱られることにも殴られることにも不感無覚になり、いかに父親が怒ろうが、ただただ嵐の通り過ぎるのを待つという心理的枠組ができ上がってしまったのである。
 これがいまだに尾を引いて、アキラは人生における困難に決してまともに立ち向かおうとしない。いざとなれば自分の殻に閉じ籠って嵐の過ぎるのを待てばよい。なんとかなるさ、嵐はいつか過ぎ去って行く――これがアキラの唯一の人生哲学であった。

 (中略)アキラは、家へ帰った時に待ち受けているものを思う。この程度の楽しみの代償としては壊れたものが大き過ぎたようにも思う――が、まア何とかなるだろう――

「結婚記念日」『日本世間噺大系』(文藝春秋、1976年)より

※現在は新潮文庫

こんなアキラが修羅場に陥り「進退谷(きわ)ま」って、さてどうするかっていうと、何もしないんです。本っっ当に何もしないんですよ。

ドラマが起きないというか、アキラがアキラであるがゆえにドラマの起きようがないというか。

「人生における困難に決してまともに立ち向かおうとしない」
「いざとなれば自分の殻に閉じ籠って嵐の過ぎるのを待てばよい」
「なんとかなるさ、嵐はいつか過ぎ去って行く」

あちゃ~、言いたかないけど、すごく分かる...
生育環境は全然違うのに、結局わたしも似たような人間に仕上がってる...
と、ウッカリ共感してしまっているもんで、自分の分身を見る思いでガッカリしちゃうんですよね。
「ちょっとアキラ!」と。
「アンタが何かしてくれなくちゃ、アタシも記念館便り書ける気がしないじゃん!」と。

こんな遣る瀬ない読書があるでしょうか。

曰く言い難い気分で新潮文庫の『日本世間噺大系』を机に伏せると、裏表紙の作品解説が目にとまりました。

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「エッセイスト伊丹十三がどこかで見聞きした、あまりにもリアルで身につまされる味わい深いエッセイも多数収録」

――うまいこと勧めるもんだなぁ、さすが新潮文庫。ホント、身につまされすぎて地面にメリ込みそうですよ。

(と、深い感心に浸りきった数分後、アキラで何か書けそうな気がしてきました。史上初めて、アキラが役に立ったケースではないかと思います。)

身につまされる読書、遣る瀬ない読書は「嫌いじゃないよ」という方、結構いらっしゃるのではないかと想像いたします。夏休みの一冊に『日本世間噺大系』をぜひ。

学芸員 : 中野

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