

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。
2012.06.25 「傘は人なり」
もうかれこれ15年ばかり、これぞという傘を探しているのですが、色柄がイマイチ、ハンドルが気に入らない、石突が尖りすぎ、などどこかが不満。ピンと来るものに出会えずにいます。
運よく「まあまあかな」というものに出くわしても、「...落とすかも」、「...盗られるかも」と心配になり、「ま、どうしても欲しいわけじゃないってことよ。次のご縁まで保留!」と先送りにしてしまうのです。
そして「明るくて見通しもよくていいじゃない、視界良好!」と透明のビニール傘をつい愛用してしまうのです...
何と言いますか、このように、「これではイカンと思いつつ私がおざなりにしてしまっているもの」をキチンと選んでいる人って偉いなぁと思います。そういうところにこそ、人柄が現れるような気がするんですよね。「傘は人なり」と言っても過言ではないとさえ思います。
そんなこんなで「私のビニ傘生活はいつまで続くんじゃ~」と悩んでおりました2年前のある日、長らく入院していた友人が、快気祝いに素敵な傘を贈ってくれたのです。すばらしい! さすがわが友! 私の残念な傘っぷりも自分じゃ選べないのもよく知っている! ありがとう!
さて、ワタクシのような妙な庶民の話はさておきまして—
伊丹さんの愛用の傘をご紹介しましょう。ブリッグ(SWAINE ADENEY BRIGG)の傘です。メイド・イン・イングランドでございます。
イヤー、カッコいいですねぇ。この傘、伊丹さんのエッセイにさりげなーく登場してるんですよ、ご存知でした?

この、女物の傘、というのが、どういうものかひどく恥ずかしかった。恥しさのあまり、私は傘をたたんで、ぬれながら雨の中を走った。(中略)
そこで私は、母親を迎えにいくところだ、という顔をして走った。迎えにいくところだから傘はささない。相手が母親だから女物の傘を持っているんだ——そういう理屈にもならぬ理屈を自分にいい聞かせながら私は雨の中を走っていった。
大人になった私が、過度に男性的なこうもり傘を所有して快としているのは、右のような事情によるものと思われる。
思い出話から始まって、自分の現在愛用の傘を紹介する、という趣向のエッセイですが、ブランド名など書かれていない、なのに、どんなに素晴らしい傘なのかが挿絵でバシっと伝わってくるのが心憎いですねぇ。
それからここにも...


そもそも、わたくしの秘めたる憧れは英国人のお洒落であった。が、これは肉体的な条件が許さないよ。つまり、英国人的な肉体条件というのがあるのだ。(中略)
まあ、われわれは、せいぜい、「ブリッグ」の蝙蝠傘を持ち、「ダンヒル」のパイプをふかすくらいで我慢したほうがいいと思う。そうして、そのブリッグの傘も、と、わたくしの畏友、白洲春正君はいう、英国人のように細く巻かずに、ばさばさのままついて歩くほうが安全であろう、と。
つまり、英国の傘を持ってはいるが、それは傘がいいから持って歩いているのであって、英国人になりたいからではない、ということを示すわけあいであろうか。
白洲春正さんまで登場しての傘談義...いい傘をあえてぞんざいに扱ってみせることで、自分という人間を表現する...どんなにいい物でも、「物に頼り仕えることはしない」という態度...うーむ、やっぱり「傘は人なり」なのに違いありません。
次の休みに雨が降ったら、友人にもらった傘を差して出掛けることにして、「いい傘ですね!」って誰かに言われたら、傘じゃなくって友人を自慢しようと思います。
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※今回ご紹介した「傘 のぞきめがね」は、残念ながら単行本未収録ですが、『伊丹十三の本』に収録されています。「英国人であるための肉体条件」の収録されている『ヨーロッパ退屈日記』は新潮文庫で今もお読みいただけます。
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【お知らせ】
宮本館長、出勤中! 本日6月25日(月)、16時までおりますので、みなさまぜひお越しくださいませ。
2012.06.18 普通
みなさま、こんにちは。6月に入り本格的な梅雨に入る時期ですね。5月はお天気が続いたので梅雨の時期にまとめて降ってほしいと個人的には思います。理由は私が住む町ではよく水不足で断水になるからです。断水になるとたちまち困るのがトイレ。私の家のトイレではペットボトル(1リットル)が4本必要になります。普段、普通にあるものを大切にしたいなとこの時期になると改めて感じます。
水といえば伊丹さんがエッセイ『女たちよ!』で水の味について書いています。伊丹さんと一緒に旅行した相手が「水にうまいまずいはないだろう」といい、そこを伊丹さんが「水というものは場所によっていろいろに味が違うもんだよ。」という話が書かれています。
私たちの生活に普通にある水。水といってもスーパーに行くと色んな場所で採れる水を購入できます。一見何気ないことですが、普通に感じてしまうと普通で終わってしまい、普通でないと感じて他の事も感じるようにすると、見た目や味がいつもと違うように感じることもできると思います。
伊丹さんのエッセイ全体で共通して私個人として感じることがあります。それは他人が普通と感じることを普通と感じずに、物事などを追及して伊丹さんの感じ方(答え)を出している点です。
私は今まで毎日生きていく中で特に何も感じずに生きてきたのですが、伊丹さんのエッセイを読むと、このまま普通に生きてきたのではもったいないなと感じるようになり、最近は今まで普通にしていたことに自分なりのこだわりを少しだけ入れるようにしたり、私が普通にしていたことに「これは本当に普通なことかな?」と見直しをするようにしました。
今まで自分が普通と思っていたことに普通でないかもしれないと考えるのは少し勇気が入ります。けれど、普通でないかも?と考えると少し世界が広がると思います。
伊丹さんは一般的に普通と思われていることを普通でないと世間に広めた勇気ある人だと私は思います。別の意見がある方もいると思いますが一つの考えとして読んでいただけたら嬉しいです。
そしてそんな伊丹さんに興味がでてきた方、そうでない方もご自身の考え方を見つけ直す良いきっかけになるかもしれません。是非記念館へお越しくださいませ。
上の写真は雨の日の記念館入口の様子です。
スタッフ:井川
2012.06.11 ジンジャーペリエ
記念館だよりをご覧のみなさま、こんにちは!ジメジメ梅雨到来ですがいかがお過ごしですか?
昨年11月から始めました、大人気のしょうがメニューに今回夏バージョンとして新メニューが登場致します。
夏といえばやっぱりシュワ~と炭酸が飲みたくなりますよね。まずは手作りしょうがシロップとペリエのコラボ!「ジンジャーペリエ」。記念館栽培のミントがいい香りで夏らしさアップ↑です。
続きましては、これまた夏に大人気中のゆずペリエに手作りしょうがシロップをまぜた「ゆずジンジャーペリエ」です。さわやかな炭酸とゆずの甘さとしょうがの風味が相性バッチリです。冷房で冷えきった体を中からあたためてくれます。冷たいものばかり飲みすぎがちですが、お腹にもやさしいしょうがドリンクをぜひお試しくださいませ。
6月1日から開始したこの夏メニューですが、カフェ入口前の黒板で紹介させていただくと、めずらしいから味の想像ができないねと興味津々でオーダーしてくださり、「これは新発見だ!」「とってもおいしい!」などと好評です。
中庭の緑を眺めながらカラカラと氷の音をさせながらジュースをまぜる。桂の葉は風に揺られてそよそよ気持ちよさそう。想像するだけで心地よくなりませんか?
しとしとと雨が降ってもまた風情がありとても雨の似合う中庭です。記念館へお越しの際はぜひカフェタンポポでひとやすみしてくださいませ。
スタッフ:木山
2012.06.04 自然について
記念館では毎日開館前にスタッフ総出で掃除や準備を行います。先日外の庭の掃除をしているとスズメより少し大きいくらいの鳥の死骸が落ちていました。
記念館は川の近くだからなのか(?)日常的にいろいろと動物や昆虫がうろうろしています。これまでも亀やら何やらの死骸が転がっていたこともありましたが鳥は初めてでした。仕事でなければ正直走って逃げ出すところですが、開館前にどうにかせねば!と紙を上からかけて「火ばさみ」ではさみ、運びました。「火ばさみ」の間から鳥が転げ落ちたりします。まともに見ることすらできませんでしたが、なんとか運びだし、埋葬しました。
話は変わりますが、焼き鳥は好きですか。お店に行くと一口大になった鶏肉が葱と交互に串にささっていたりして、甘辛いタレがついたり塩がふりかかったりして、出てきます。焼き鳥ができる工程のイメージは正直な感覚で言うと、工場で小麦粉的なものに魔法の粉的な何かを混ぜて、水を入れて練って機械からポンポン発生してできているような、とてつもなく不自然なイメージを持っています。鶏をさばいているところを想像しては焼き鳥など食べられませんから勝手に自分の中で都合のよいように変換しているのでしょうか。実際に鶏をさばいているところを見たことがないからでしょうか。自分でもよくわかりません。
自分が想像している焼き鳥のできる工程のほうがよほど不自然なことにも関わらず、死んだ鳥を見るという「自然界の中でごく自然なこと」に対して取り乱したりして、自然界からすっかりかけ離れてしまっている自分の感覚に驚くばかりです。
子供の頃、都会の子供が生きているカブトムシを分解して「電池が入っていない」と言ったという話を聞いて(今考えるとこの話は本当なのでしょうか?)「最近の子供は!」と驚き呆れていましたが、大人になるにつれて自分もその都会の子供と大差はないな~と実感しています。
さて、伊丹さんのエッセイの中で「死教育」というエッセイがあります。伊丹さんの愛猫の「コガネマル」が死んだことで、幼い息子にどう死を伝えるかという事を悩んでいたようです。家族で庭の梅の木の下に「コガ」を埋めたそうですが、私も鳥を埋葬しながらこのエッセイのことを思い出しました。このエッセイはもともとは伊丹さんの著書「女たちよ!男たちよ!子供たちよ!」(文藝春秋)に掲載されたものです。一部ご紹介いたしますのでよろしければご一読下さい。
「死教育」 女たちよ!男たちよ!子どもたちよ! 伊丹十三著
~略~
これは、私の子供が生まれて初めて直面した死の実相というものだったわけですね。このあと、子供の話の中にやたらとコガの死、あるいは、死一般についての質問が多くなり始めた。
~略~
「死ぬとどうなりますか、トオチャン」
「それは判らない」
「どうして判らないんですか?」
「それはね、死ぬと他の世界へ行っちゃうだろ。ところがその世界からこっちの世界へ帰ってきた人がいないから判らないんだ」
「世界ってなんですか?」
「世界?−ウーン、世界っていうのは世間というか−そうだねえ、世の中というか−お前、世の中って判るか?」
「判りますよ。あのね、真っ暗なの、ヤミですね」
「それは世の中じゃなくて夜中なんだよ。ウーン、弱ったな。じゃあね、死ぬとね、みんな原子になるんだ」
「動けますか、それは?」
「動けるよ。お前もトウチャンも原子になって宇宙の名を飛びまわるんだ」
こんな説明で納得するわけがない。今日も子供は「ボクは死ぬのいやだ」と叫んでいる。
「トオチャン、死なない薬を発明してください。死なない薬はどうやって作ればいいんですか。野菜とあと何を入れればいいですか?」
と叫んでいる。
「死教育」はいかにあるべきか。これが私の現在の悩みである。
【画像左が伊丹十三著 「女たちよ!男たちよ!子供たちよ!」(文藝春秋)。現在絶版。右の松田哲夫氏編「中学生までに読んでおきたい哲学6 死をみつめて」(あすなろ書房)は今年5月に刊行された本でこの「死教育」のエッセイが全文掲載されています。他にも著名人の「死」に関するエッセイが多数掲載されています。】
スタッフ:川又

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