記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2025.12.01 身体のエッセイ

最近、久しぶりに歯医者に行きました。
無意識のうちに歯を食いしばってしまう癖がついているのを自覚して数ヶ月、自分で気を付けてみてもなかなか治らないのです。意識すればするほど悪化していく感じがしたので、「マウスピース作ってもらおう。ついでに、悪いところがあったら手入れしてもらおう」と。

ところが、レントゲン撮影と検査の結果、告げられたのは――

1.まずは、弱くなっている歯グキの治療を4週間
 ↓
2.次に、右上奥の親知らずの抜歯
 ↓
3.その次に、親知らずの隣の歯の虫歯治療
 ↓
4.歯並びが落ち着くのを待ち、マウスピースの型を取る

という長大な計画。


「悪いところがあったらついでに」どころではなかった! マウスピースまでの道のりが長い!

歯医者さんによると、「隣に虫歯がある親知らずを残したままマウスピースを作るべきではない」「抜歯は歯グキに負担をかけるから、今より歯グキの状態を上げないといけない」のだそうです。納得せざるを得ませんね。

だけど......食いしばりによる歯と歯グキの違和感、顎の筋肉の疲労、それと連動しているに違いない首・肩の筋肉の疲労......年内に全部解消したかった......

そんなわけで、わたくしは現在も24時間体制で上下の歯がくっつかないよう細心の注意を払い、それでも気付けば奥歯を噛みしめていたりして、悩ましい日々を過ごしております。身体の感覚が人間に及ぼす影響、侮るまじ。


――と、いうような、わたくしの下手な報告は忘れていただくといたしまして、「身体の感覚に人間が翻弄される様」を見事に作品化した伊丹エッセイがありますので、この機会にご紹介させてください。

「今夜十二時がギリギリ」という〆切の日、一文字も書けないでいる流行作家・青野先生が主人公の、短編小説風エッセイ「背骨の問題」です。

20251201_1.jpg「背骨の問題」は、2025年11月現在、新潮文庫の
日本世間噺大系』でお読みいただけます

 

 書けなくなった原因は、整体術であった。詳しい話は省略するが、整体術というのは、脊椎を正しい姿に矯正して健康を保たんとする医術であるらしい。先生は、一週間前、人に勧められるまま、蒲田のゴミゴミとした町中にある整体術の治療院を訪れ、軀中の節節を、捩じ曲げられ、引き伸ばされ、捏ね廻された揚句の果て、あらゆる骨という骨をボキボキやられて、目が醒めたようになって家に帰ったのである。これが悪かった。

(中略)整体術でボキボキやられたあと
「じゃア、正坐なすってください」
といわれて治療台の上に起き上がった時、先生は自分の脊椎の一箇一箇が、まさに垂直に、真上へ真上へと積み上げられているのを発見したのである。
「アレ、背中が真直ぐに伸びてますな」
 先生は驚きの声をあげた。
「左様、あとこれを持ち堪えていただくのはあなたの仕事です」
 これで先生の筆が止まってしまった。

 物を書くためには背を曲げて原稿用紙の上に屈み込まねばばならぬ。僅か四五分でも背を丸めれば、背骨はまたずるずると元の猫背に戻ってしまうに違いない。折角伸びた背骨を、なんで再び曲げることができよう。
 先生は、机の前に背筋を伸ばして端坐したまま、一箇の文字だにも書く能わずして一週間を過ごしてきたのである。

「背骨の問題」『日本世間噺大系』(文藝春秋・1976年)
※以下の引用も同じ

そうして"先生"は、炬燵の板を斜めに膝に抱いてその上で書いてみたり、腹這いで書いてみたり、書家を真似ればいい姿勢で書けると思いつきお習字を始めてウッカリ夢中になってみたり、背・肩・首を強化せねばと筋トレを始めてみたり――何とも健気な脱線と迷走を重ねていきます。
"先生"の背骨への強烈な意識とそれがためにズレていく行動は滑稽極まりないのですが、「先生の身体が感じていること」の描写が的確なので、我がことのように感情移入させられます。

その後、運動熱が高まった"先生"はウォーキングに出かけたくなり、骨盤が開いた正しい姿勢での歩き方を研究し始めるにいたります。

 直ちに一糸纏わぬ姿になって風呂場の鏡の前に立ち、足のあちこちに力を入れては、骨盤の開き工合の観察にとりかかった。
三十分ばかりあれこれやってみるうちやがて結論が出た。即ち、内股に力を入れ、膝と膝をこすりあわせるようにして、なおかつ、やや内股で歩く時、最も骨盤が開く、というのである。この方法で歩いてみると驚くほど膝のバネが柔かく使えるということも先生は発見した。

 (中略)先生は、骨盤を開く歩き方で、脇目も振らず、ひたすらに歩いた。
 黄昏の春の公園を、股をこすりあわせなよなよと内股で歩く先生の和服姿は、一種異彩を放つものであったが、先生の心は誇りやかであった。

かくして〆切まであと6時間――"先生"の原稿は無事に仕上がるのでしょうか!?
そんなスリルも味わえるエッセイ「背骨の問題」。身体の違和感にお悩みの方がお読みになったら、その違和感をいっとき忘れられるかもしれません。

本日は『日本世間噺大系』を処方させていただきました。

*** 特別展に関するお知らせ ***

本日12月1日(月)、特別展・伊丹十三の「食べたり呑んだり作ったり。」のスペシャル映像コーナーに新作スライドショーが登場!

三谷龍二さん、瀧波ユカリさん、三浦哲哉さん、稲田俊輔さん、山口祐加さん、吉田全作さん、平松洋子さんに続く8人目の出演者、"大トリ"を務めてくださるのは、伊丹十三記念館の設計を手掛けた建築家にして熱烈なる"イタミスト"、建築家・中村好文さん。
中村さんの学生時代からの愛読書、伊丹十三の『女たちよ!』に登場したサンドウィッチをご紹介くださいます。

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お料理そのものはもちろんのこと、年季の入ったイタミストぶり、建築家ならではの流儀、御自らの設計による中村さんの別荘の雰囲気、どれを取ってもお楽しみいただけます。ぜひご来館のうえご鑑賞ください。

≪伊丹レシピ、私流。≫

二本立て展示
2025年12月1日(月)-2026年3月30日(月)

エッセイスト 平松洋子のクレソンのサラダ
建築家 中村好文のキューカンバー・サンドウィッチとバゲット・サンドウィッチ

学芸員 : 中野