記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2025.06.23 交通標語

6月も半ばに入りましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。松山では6月2週目の終りごろから急激に暑くなり、日中は30度を越える夏日が続いております。皆さまも暑さに気をつけて、栄養をたっぷり取れるものを食べてよくお休みになってくださいね!

 

s-IMG_7500.jpg最近の記念館の様子

 

s-IMG_7496.jpg中庭の桂も葉が青々としております

 

 

3月17日の記念館便りにて、2025年の1番大きな目標は「運転が出来るようになる」と書いたのですが、それから約3か月間で少しずつ練習を重ね、7年目のペーパードライバーだった私も最近では日常的に運転することができるようになってまいりました。山道や海沿いを走ってみたり、高速道路を利用して香川や岡山まで運転してみたりと、だんだん運転をする楽しさが分かってきて、楽しい日々を送っております。

運転を日常的にするようになって気づいたのは、街中の見なければいけない物の多さでした。自転車で移動をしている頃はあまり意識していなかったのですが、街中の道路標識、信号機、電光表示板のなんと多いこと!まだまだ初心者なので、制限速度や一方通行などを認識し、地名や曲がる方向が書かれた青看板を見るのでいっぱいいっぱいなのに、見なければならない物が沢山あって目が足りないと感じます。

特に、渋滞や通行止めなどを知らせる電光表示板なんかに、時折「前を見て運転しよう!」、「事故多発!スピード落とせ!」など書かれておりますが、何か事故などでもあったのかと気にして電光表示板を見ることが多いので、標語だけの看板を見ることで注意力が散漫になってしまう気がするのです。どこを運転していても、危ない、スピード落とせ、歩行者に気を付けよう、という内容の看板や旗、表示板が沢山あって、「結局運転をする限りはどこを走っていても気をつけなければならないから、この標語たちはそんなに重要ではないのでは?」と思ったりもします。

さて、そんな交通標語について、20代の頃から自分で運転をしていた伊丹さんはエッセイの中で下のように書いています。

 

今はどうなっているか知らぬが、京都の市電の停留所を示す琺瑯引きの看板の、その停留所の名を大書した下に小さく書かれていた言葉を思い出す。

人、車

整然と行く

美しさ

というのであるが、この川柳とも詩とも交通標語ともつかぬものを一読するたびに、私は一種奇妙な爽やかさが心をうつのを覚えたものである。

「人、車、整然と行く美しさ。読み人知らず。うん、これはいい」

私は心に呟いたものです。

 第一、この標語は――もしそれが標語であるとしての話だが、何事も主張しておらぬところがいいではありませんか。都大路を、人と車が整然と行き交う美しさ、それがどうした? どうもしないのであって、ただそういう美しさのイメージが示されているだけのものである。こいつはなかなか優雅なものですよ。説教臭が、人を強制しようという趣が露ほども見られない。

 そもそも交通標語というもの、あんなものが些かでも効力を持ち得る、と役人どもは本気で考えているのだろうか。やっぱり考えているんだろうねえ。その証拠に、交通安全運動に関する予算をどう使うという話になると、たいがい、まず交通標語を募集し、当選作を大書した立看板、あるいは例の幔幕風のやつを、都内何千個所とやらに「設置」することになった、というような談話がされるのが常である。つまり、お役人衆の頭には、交通安全というと、まず第一の対策として標語というものが浮かぶ仕掛けになっているらしいのである。

 私はいつも不思議に思うのだが、一体、日本の交通行政を司る役人たちのうち、自分で運転できる人間が何人かでもいるのだろうか。交通安全というので、まず標語を思いつくという感覚は、これ絶対に自分で運転する人間の感覚ではないね。

 自分でハンドルを握る人間なら、交通標語なんていうものが、街を穢くする以外、はっは、糞の役にも立たないことくらい身に沁みて知っているだろうはずだからである。

 一体なんだと思っているのかね、役人どもは。標語を見たとたん、走っているドライヴァーたちが一斉にさっと心を引緊め、スピードを落す、とでも考えているのかね。世の中、そんなに甘くないのだなあ。そういうのを想像力の貧困というのだよ。具体性の欠如というのだよ。だから月給泥棒なんて納税者に馬鹿にされるのだよ。

 ともかく標語というのをやめてもらいたいと思う。どんな標語を捻り出したって事故はふえるばかりじゃないか。小学校で「学校の中は静かに歩きましょう」なんて黒板に書いてあるけれど、標語の効力はあのへんどまりだと思う。

(中略)

 ともかく、交通行政者諸君よ、今からでも遅くはない。一刻も早く運転免許を取りたまえ。そうして半年でも一年でも運転した上でだな、運転者の意識の上に立脚した、もう少し次元の違った交通対策の発想をおねがいしたいと思う。

 まったくのところ、われわれ車を運転するものどもは、交通行政とか道路行政とか称して、免許も持たぬ素人どもが税金をどぶに捨てているのを見るのにあきあきしているのだ。

「アッあぶない!」

といいたいのはこっちだよ、まったく。

(『女たちよ!』より「アッあぶない」)

s-IMG_7497.jpg「アッあぶない」が載っている『女たちよ!』

 

 

このエッセイを初めて読んだ時には、まだペーパードライバーだったため、「ふうん、そんなもんか」と思っておりましたが、日々運転をするようになると、この伊丹さんのエッセイに強い共感を抱きました。自分で運転をし、運転の仕方も基本を守り、事故の危険性なども心得て注意していた伊丹さんですので、景観を損ねている面も含めて、このような交通標識はあまりお好きではなかったのだろうなと思います。

 

これからの季節、夏休みもあって、海やプール、観光地など、遠出する方も増えてくると思います。住んでいない地域ではどうしても道に迷ったり、道路標識を見落としたりしがちですので、交通標語のような書き方で恐縮ですが、皆さまどうぞお気をつけて運転をなさってください。

私もこの夏は、伊丹さんのように「人、車、整然と行く美しさ」というような言葉を見つけ、「良い看板だったな」と思えるような余裕を持った運転をしたいと思います。

 

学芸員:橘