記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2025.03.17 運転

3月も後半に入り、日中は春らしくぽかぽかと温かい時も出てまいりましたこの頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

記念館ではトサミズキやユキヤナギがどんどん花をつけています。中庭ではヒメツルニチニチソウの花が咲いて、春らしい毎日です。

 

s-IMG_6918.jpgトサミズキ

 

 

s-IMG_6926.jpgユキヤナギ

 

s-IMG_6932.jpgヒメツルニチニチソウ

 

 

さて、本日の記念館便りでは運転についてお話したいと思います。

 

私が以前勤めていた会社は普通自動車免許の取得が必須の会社だったので、大学の春休みを利用して免許を取得しました。毎年この時期になると、「あの年の今頃はほとんど毎日教習所に通っていたな」と思い出します。

しかし、せっかく免許を取得したのですが、仕事の日もお休みの日も運転する機会が無く、免許取得後は全く運転をしたことのないペーパードライバーとなってしまいました。そして自転車さえあれば生活の出来る場所に住み続けた結果、ペーパードライバー歴がこの度7年目に突入したところです。

そんな運転をほとんどしたことのない人間ではありますが、昨年引っ越した場所が松山市内より圧倒的に車が必要になる場面が多いことを最近ひしひしと感じております。意外と病院や飲食店、家電用品店などが遠く、移動が大変なのです。今住んでいる場所からだと実家方面に帰る際も車が便利で、なおかつ移動時間も短くなるため、やはり運転は練習せねばと2025年の1番大きな目標は「運転が出来るようになる」となりました。

 

皆さまも日ごろ運転されることがあるかと存じますが、運転をする時に胸にとどめておきたい伊丹さんのエッセイを2つ続けてご紹介させていただきます。

 

 わたくしは、ドライヴァーとして発言するのだが、車というものは実におそろしいものだと自分自身思うのです。車が凶器だ、というのは全く本当だと思う。

 たとえば、雨の夜道なんて、われわれはほとんど何も見えないで運転しているのです。前方から来る車のライトが、アスファルトの上に、光の縞模様を作っている、その上を時たま、かすかな黒い影がちょっとかすめたような気のすることがある。それが歩行者だったり、自転車だったりするのです。

 反対側のトラックとすれ違う時なんか、ヘッド・ライトがちょうどこちらの目の高さを通過するから、ギラギラと輝きながら接近する二つの白い光線を除いて、世界は、一瞬全くの暗黒と化してしまう。

 一瞬とはいっても、車はその間何十メートルも走っているでしょう。しかも、普通、ドライヴァーというものは、車とすれ違う時、本能的にそちらのほうを注意してしまうのです。道路の端の方の暗闇に目を凝らしたりはしない。よしんば目を凝らしたってなにも見えやしない。じゃあ危険じゃないか、というのかね。非常に危険です。危険ならブレーキを踏めばいいじゃないか。ところが絶対に踏まないのです。何故かは知らない、ともかく、すれ違うたびにブレーキを踏むなんて見たことがないのです。

 だから、その暗闇の瞬間、三人くらいの歩行者が肩を並べて歩いていたらどうなるか。運転者には全く見えないんだから、よけもしないではねとばされるよ。

 明るいヘッド・ライトの中にいるから相手には見えているんだろうという考え方、見えれば当然スピードを落とすだろうという考え方、これは、今すぐ、この場で改めてもらいたい。

(中略)

 これで、事故がおきないわけがないのです。にもかかわらず、だれしも初めて事故を起すまでは無事故なわけでしょう。そして、だれしも交通事故を防ぐために運転しているものはいない、目的地へ着くために走っているのです。ということは、今までこの程度の運転で安全だったのだからという安心感から、危険に対する許容度が、かなり甘くなった状態で運転している、ということになるのです。

 実は、今まで安全だったのではない、()()良かった(、、、、)に過ぎないのだ、ということに気づいていないのです。

 要するに、運転者を信頼してはいけない、ということです。車にはだれも乗っていないと思えばよいのです。どんな車でも、だれも乗っていないと同じ状態になり得る時間があり、その一瞬事故が起きるのです。

(『ヨーロッパ退屈日記』より、「注意一瞬、怪我一生」)

 

 だれしも免許を取りたての頃は、ことさらに肘を窓の外に出したりして、いかにも運転馴れしたポーズを作りがちのものであるが、総じて、こういう変則の姿勢というものは、趣味としても初歩の初歩である。

 私はかつてロンドンの街で、ジム・クラークが乗用車を運転しているのを見かけたことがある。ジム・クラークは両腕を一杯に伸してハンドルのいわゆる「十時十分」のところを握っていた。

すなわち、どんなにゆとりのある場合でも正しい姿勢を崩してはならぬのだ。なぜなら、正しい姿勢のもつ真の意味は、突発的なできごとに即座に対処することができるという点にある。だから、自分の運転に責任を持つ人間は、必然的に正しい姿勢をとらざるを得ないのだ。

(中略)

 さて、いまさら申し上げることもあるまいが、自動車というものは危険物であります。これを扱うに当って、男たるもの、どんなに自分自身に厳しくあろうとも、厳しすぎるということはない。いわんや、いいかげんな気紛れや、でたらめは許せないのであります。

 たとえば、運転のさいの履物一つにしても、最も運転しやすい、正しい履物を選ぶべきである。底革の滑りやすい靴や、脱げやすい草履で運転することは断じて許せないのであります。

 これがすなわち「自動車の運転におけるヒューマニズム」というものである。

 そうして、われわれは、巧みに運転する前に、品格と節度のある運転を志そうではないか。

 交差点で自分の前が右折車なんかで塞がれると、すぐ隣の列へ割り込もうとする人がある。というよりむしろ日本人の九十九パーセントまでが左様である。

 思うに車の運転とは、自分自身との絶え間のない闘いであります。人に迷惑をかけてはならぬ、ということは誰でも知っている。知っていながら割り込むというのは、これはすなわち自制心の欠如というものである。

 隣の列がどんどん流れてゆくと、もう矢も楯もたまらない。なんだか莫大に損をしているような気になってくる、

 つまりその瞬間なのだ、運転者の品性が決定するのは。こういう時に、甘んじてその場に踏みとどまっていられるだけの、強い意志の力と、人間としての品位を持つか持たないか。これが、よい運転者と悪い運転者との永遠の別れ道となるのである。

(『女たちよ!』より「スポーツ・カーの正しい運転法」)

 

どちらのエッセイでも、車は大変危険なもので、一瞬の隙や馴れ、気のゆるみで事故がおきてしまうこと、事故を起さない運転をすることの大切さが書かれております。あらためてこの2つのエッセイを読むと、誰かを乗せている時にはその人の命も預かっているも同然ですし、鉄の塊を動かしていることを常に忘れずに運転をせねばと気持ちが新たになります。ジャギュアやロータス・エラン、ベントレーなどの自動車に凝り、48歳で普通二輪免許を取得してバイクにも凝っていた伊丹さんの運転に対する真摯な姿勢が見られるエッセイは、それぞれ『ヨーロッパ退屈日記』、『女たちよ!』で読むことができます。よろしければぜひ、お手に取っていただけますと幸いです。

 

s-IMG_6933.jpgオンラインショップでもお取り扱いしております。

 

1月2月は少しバタバタしておりましたので機会に恵まれなかったのですが、この3月にようやく運転が出来る機会が出来ました(もちろん、運転に慣れている人に助手席に座っていただく予定です)。乗り物好きの伊丹さんのエッセイを胸に、車の練習に励みたいと思います。皆さまもどうぞご安心に。

ぜひ、春のドライブでは記念館にお越しください。伊丹さんの愛車のベントレーとともに、スタッフ一同お待ちしております。

 

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学芸員:橘