記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2025.06.16 食べものの歌

数日前、炊飯に失敗しました。芯の残った硬いごはんが出来あがってしまったのです。
いけなかったのは水加減か火加減か......いや、両方ともダメだったかもしれない......今でも悶々と考えてしまいます。

20250616_pot.jpgマイお釜。元はテイクアウトの釜めしの容器。
一食分を炊くのに最適で、
失敗したことなかったんだけどなぁ~

「こんなことまで失敗するとは」という精神的なショックと、無理に食べたごはんが胃に停滞している感覚が尾を引いて、食べもののことを考えるのがチョッピリつらくなってしまいました(お腹は空くし、何かしらは食べるんですけどね)。
特別展伊丹十三の「食べたり、呑んだり、作ったり。」で伊丹さんの食いしんぼうぶりをご紹介しているというのに、なんたることか。

伊丹さんに食欲を分けてもらおうと思い、展示室を歩いてみますと――

20250616_ex1s.jpg伊丹十三の著書から食に関する名言をセレクト、
挿絵とともに壁いっぱいにレイアウトしているコーナーです。

20250616_ex2s.jpg「ロングネック」『ぼくの伯父さん』(つるとはな)より

――ううむ。これは強い。食欲というより執念に近いものを感じます。

さて、伊丹十三の父・伊丹万作もまた、ストイックでありながら食べることに強い興味を持つタイプの人物であったようです。

それは遺された文章のあれこれから察せられるのですが、肺結核で亡くなるまで8年にも及んだ闘病期間は不幸なことに戦中戦後と重なっていました。滋養を取るために食べようにも、楽しみのために食べようにも、とにかく食べものがない世の中。そのような時代に病臥している自身の食欲について、次のように書いています。少し長くなりますが――

平素あまり美味を追わない人でも、たまたま病を得て床に就くと、しきりに何が食いたい、かにが食いたいといい出す傾向があるのは人のよく経験するところである。
 一般に健康人の生活は勤労に追われて、空想や幻想を発展させる余裕にとぼしいが、そういう人たちでも、病床に就いて時間の空白を持てあますようになると、それを埋めるためにいやおうなしに空想家にならざるを得ない。
 この場合、食欲不振の症状のものは別として、食欲に異状さえなければ、その空想力はまず食物に関して働くことが多い。というのは、食欲は最も一般的な欲望であり、しかも、この種の幻想にふけることは何ら特別の才能を必要としないからである。
 ことに自分のように長年にわたって病褥に縛りつけられているものは、食物に対する幻想が非常に強くなる。それにもかかわらず現在のごとく、幻想はどこまでいっても幻想にとどまって、百に一つも満される機会がないという情勢のもとにあっては、食欲の画く幻想に苦しめられながらすごす時間の量はなかなかばかにできないのである。このような時間を切り抜ける手段として自分の作った食欲の歌や詩は少なくないが、その一例は次のようなたわいのないものである。

 

糸づくりいかの刺身は紫のたまりをかけて食ふべかりける
ゆふだちの音にまがひててんぷらの油の煮える音のよろしき
かつれつは豚こそよけれ雪のごとききやべつきざみてうづたかく盛れ
松山のたるとの餡は黒かりき餡多ければ手に重かりき

「静臥饒舌録」『伊丹万作全集』第1巻(筑摩書房)より

叶うことはないと白旗を揚げながら食欲と向き合わねばならぬ時、人はこれほどまでにド直球な歌を詠むものなのか――
食欲って、つくづくと、五感から刺激されるものなんだな、病気で寝ていても――
"たわいもない"と作者自ら言うけれど、四首の歌の力強さには心打たれます。

20250616_echo1s.jpg20250616_echo2s.jpg「松山のたると」の歌は、後年、伊丹十三によって
エコーはがきの広告に仕立てられました。
併設小企画『伊丹万作の人と仕事』に展示中です。

そうだ。今日、6月16日は「和菓子の日」です。
仕事を終えたら一六タルトを買って帰るとしましょう。ちょっと食欲出てきたかも。

日本各地が梅雨入りして、消化機能の低下や食欲不振を起こしやすい季節です。
どなた様も、必要なものと好きなもの、適宜チョイスして栄養補給してくださいね。
そして元気にご来館ください、お待ちしております!

学芸員 : 中野