記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2023.09.25 『ガクゲイイン中野靖子の冒険』

9月17日(土)午後2時過ぎ、専修大学神田校舎10号館6階10061号室。


かつてない緊張に打ち震えつつ「松山の伊丹十三記念館からまいりました中野と申します」とご挨拶し、40人を超える方々、それから、尊敬してやまない演出家の今野勉さん――数々の傑作ドキュメンタリー番組で伊丹さんと仕事を共にした"盟友"今野さん――の前で、幅広い分野で活躍した伊丹さんの仕事に関するお話を始めました。

※ 今野勉さんについてはこちらもぜひ!

一体何事かと言いますと、
日本映像学会第10回ドキュメンタリー・ドラマ研究会
今野勉著『テレビマン伊丹十三の冒険』出版記念 テレビメディアと伊丹十三
という、大変にめでたく、この上なく有難い会で「伊丹十三の仕事」をテーマに講演する機会を頂戴したのです。なんと光栄なことでしょうか。

20230925_ddken_0.jpg慣れぬPowerPointでド真剣に作ったタイトルです

研究会は三部構成で、
・第一部
 上映『欧州より愛を込めて』『遠くへ行きたい 伊那谷の冬』『天皇の世紀 福井の夜』
・第二部
 講演「伊丹十三の仕事」(中野)
・第三部
 パネルセッション
 (今野勉さん・コメンテーター/法政大 藤田真文教授・中野、司会/静岡大 丸山友美講師)

 

と午前中から夕方までたっぷり。とっても贅沢なプログラムでありました。

今野勉さん&伊丹さんによる傑作テレビ番組の映像・講演・討論・質疑で、今野さんのご新著と作品への理解をより深めましょう、という集まりであったわけ、です、が......

白状いたしますれば、講演のご依頼をいただいた当初、「こっ、こここ今野さんの前で伊丹さんについて語る...ってこと...です...よね......ワタシにはそんな根性ありません! どうしたらいいんですかどうしたらいいんですか~~~」と半ベソで同僚たちに泣きついたものです。
(私が今野さんの大ファンであることを知っている同僚たちは「よかったじゃないですか~」「楽しんできてください!」と笑顔で励ましてくれました。でも、内心では「どうせ引き受けるんだから黙って受け入れればいいのに」と呆れていたにちがいありません。みなさんいつもごめんなさい。)

それやこれやの最中にも「割り当てられた1時間で『伊丹十三の仕事』をどのようにお伝えすることができるだろうか」と考え始めていたのですが、思案した末の結論は「当然ながら"全てを順に詳細に"は無理」ということ。"ナントカの考え休むに似たり"、まさに至言ですね。

そこで、まず、伊丹さんの経歴の中で現在最も知られているであろう「映画監督としての仕事」からご紹介することにしました。脚本監督作品10本の特徴を一番に挙げるとするなら「日本人論」であります。
その点をご説明した後、「映画監督という職業にいたるまでの経緯」と「伊丹十三の日本人論はどのように形成されていったのか」についてお話ししていく、というのが本論の構成。

ポイントにしようと私が考えたのは、3点。
「幅広い活動の理由」「テレビとの出会い」「父・伊丹万作の存在」、です。

20230925_ddken_1.JPG講演中のわたくし。
テレビ・メディア研究者や学生さんが多く集まった会場には
ITM伊丹記念財団役員の方々、お久しぶりの方々のお姿も――

【1】映画監督デビューまでにデザイン・エッセイ・テレビドキュメンタリー・テレビCM・精神分析、と幅広い表現活動を経た伊丹十三ですが、「多才」「何でもできる人」とひとことにと語られることには、長い間、違和感がありました。
その違和感の元を"逆転"させて「時代や年齢に応じて浮かんだ問題意識をテーマとする時、最善の創造活動を実現するためにテーマに適した表現方法・分野を常に模索していた(その結果が多分野にわたる活躍となった)」と捉え直してみると、それぞれの分野における伊丹十三の創意工夫と収穫がより顕著に見えてくるように思われます、ということを、伊丹さんの経歴を概観しながらひもといていきました。

【2】それから「ドキュメンタリー番組のロケで多くの旅を経験したことによって、独自の日本人と日本人社会の歴史への認識を深めていき、また、今野さんをはじめとするテレビマンユニオンの方々との番組作りの場でジャンルの枷を超える自由な表現を学んだ」というお話。
これを、直筆のナレーション原稿やメモなどの番組制作資料、単行本に収録されなかったエッセイとともにご紹介できたのは、記念館ができたときに伊丹さんの直筆資料をご寄贈くださった今野さん、"とにかく物を捨てずに取っておく人"(宮本館長談)だった伊丹さんのおかげであります。

【3】そして最後に、「テレビでの活躍後、精神分析を学び、遅咲きの映画監督となった背景には、"まわり道をせざるを得なかった事情"があった」ことにもふれさせていただきました。
"まわり道"の根底には、父・伊丹万作を少年期に喪ったこと、その父が偉大な映画人であったことに由来する憎しみに近い感情、内面での父との葛藤があったと考えています。その秘めた苦しみに気付いた伊丹十三は、日本人である自身の内に根付いた問題の解明の道を精神分析に求め、学びに励んで乗り越えるにいたったのですが、心の中の父と和解するに至るとともに、創造活動の柔軟性もより高まっていきました。そうした流れがあり、1984年、51歳で映画監督デビューを果たし――最終的には父の功績を顕彰するに至った――という経緯を、新聞や雑誌インタビューでの発言、伊丹万作五十回忌でのスピーチなどなどをもとに詳しくお伝え――
――したかったのですが、終盤はかなり駆け足でまとめさせていただくことになってしまい、それなのに持ち時間を超過してしまい、ご聴講の皆様、研究会の皆様には大変失礼いたしました。

(研究会参加者で「ここのところ、もっと詳しく説明して欲しかった」と思ってくださった方がいらしたなら、ぜひ記念館HP内のこちらのページやこちらのページをご参照くださいませ)

と、いうようなことを考えての私の講演は、拙い話しぶりと覚束ない運びで終ってしまいましたが、このたびの研究会を機に考えたこと・経験させていただいたことは、私にとってはまたとない冒険でありました。

20230925_kuromon.JPG冒険ついでに研究会会場の専修大学のシンボル"黒門"をパチリ。
(朝日直撃で赤っぽい色味になっていますが実際はもっと黒いんですよ!)
1885年の神田移転から1903年までの明治時代の「専修学校」の正門で、
創立130周年を記念して2010年に復元されたものだそうです。

そして今、『テレビマン伊丹十三の冒険』を再び手に取り、「今野さんたちや伊丹さんが愛する"自由"とはどういうものだろう」と考え続けています。

力尽くで舌鋒鋭く闘って勝ち取る自由もありましょうが――

「当たり前」の発想レベルが"ジャンルの枷の内側"にある人は不自由なまま。
自分たちが伝えたいことをよりよく伝える表現のため、そして受け手のため、"ジャンルの枷"をヒョイとはずし、さまざまな条件や状況に応じて新しい「当たり前」を当たり前のように発想できる人たちは自由でいられる。

きっとそういう"軽やか"な自由ということなのだろうな。
それは私のような者にも可能だろうか。
などなど、考えに耽りながら、やっと秋めいてきた松山で空を眺める今日この頃です。

最初こそドキュメンタリーのロケに戸惑った伊丹さんが徐々に勘どころを獲得し、水を得た魚のように躍動し、ついには羽根まで生やして羽ばたくかのように日本人と日本人社会の歴史を自在に捉えることができるようになっていった――その過程は記念館の『旅の時代』展でご紹介したところでもありますが、今野さんの『テレビマン伊丹十三の冒険』では、ご記憶・ご経験・資料に基づいてさらに克明に記述されていて、ジャンルを問わず自由を求める人々へのヒントに満ちています。自由をめぐる痛快冒険譚、未読の方はぜひぜひお手に取ってみてください。


(叙事詩的に最初から通して読んで面白く、かつ、どこから読んでも面白くてツマミ読みをも許してくれるのが、この本のすごいところ。学術書の気難しさはどこにもありません。どなた様でもどうぞお気軽に!とお勧めいたします。)

すばらしいご本を世に送り出し、研究会のパネルセッションでは惜しみなくお話をお聞かせくださった今野さん、お声をかけてくださった研究会メンバーの皆様、ご参加くださった皆様、本当にありがとうございました。

20230925_ddken_2.JPGパネルセッションにて、幸福感にひたりながら今野さんに質問中のわたくし(右奥)。
左から、司会の丸山友美先生、今野勉さん、コメンテーター藤田真文先生。
藤田先生、丸山先生の丹念なご準備ぶりも、大変勉強になりました。

学芸員:中野