記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2016.10.10 伊丹映画の中の饅頭・打ち出の小槌

伊丹映画を観ていますと、監督デビュー以前の著書にある表現が、そっくりそのまま使われているセリフに出くわすことがあります。

たとえば『大病人』(1993年)。癌と知らずに入院先でワガママ放題の患者・武平(三國連太郎)を担当医・緒方(津川雅彦)がキツーく叱るシーン。

「あんたのように甘ったれた患者は見たことがない。芸術家が聞いて呆れる。たまには自分の苦しみに自分で耐えてみたらどうなんだ。なんです、あんたは。一刻も一人でいられないじゃないか! あんたは半分に引きちぎられた饅頭だ! 中のアンコが剥き出しになって痛くてたまらん、誰でもいい、早く残りの半分になって傷口をふさいでくれと泣きわめいている愛情乞食だ! あんたはみっともない。はた迷惑だ。みんなあんたが嫌いだ!」

津川さんのものすごい剣幕(かつ、ぐうの音も出ない正論)に圧倒されてしまうのと、それに続く三國さんの臨死体験への急展開とで、一言一句を気にする暇なく一気に進んでしまうところなのですが、「マンジュウ......? 津川さん、突然マンジュウって言ってたよね」と後を引くセリフです。

人間を「半分に引きちぎられた饅頭」にたとえる考え方は、伊丹十三が心理学の佐々木孝次教授から学んだもので、二人の共著『快の打ち出の小槌 日本人の精神分析講義』(1980年、朝日出版社)の中に登場しています。

kaino_uchidenokozuchi.jpg残念ながら現在絶版の書籍です。
ご興味ある方は古書でお求めください。

専門用語が多くいささか難しいので引用はここでは割愛しますが、この「人間=饅頭」論が伊丹十三の中でどのように理解・展開されたのかがよく分かる、こんな文章があります。
(仲のいいお友達とずっと一緒にいないと落ち着かず勉強が手につかない、という高校生からのお悩み相談に対する回答です。)

 精神分析の佐々木孝次さんによれば、人間というものは半分に引きちぎられた饅頭のごときものであるというのですが、私も全くそうだと思う。人間というものは半分なんです。半分だから一人では生きられない。残り半分をだれかに埋めてもらわなければ片時も安心できない不安定な存在なのです。
 赤ちゃんの時、残り半分を埋めてくれるのはお母さんですが、やがて人間関係が広がるにつれ、お父さんや兄弟や先生や友人がそれに加わるでしょう。さらに長ずれば恋人や仕事仲間や結婚相手や生まれてきた子供たちが、さらには、仕事や趣味や食べ物や酒やたばこも、失われた残り半分を埋めてくれるものとして立ちあらわれることになるでしょう。こうして、いつのまにかわれわれは自分が半分の存在であることを忘れて生きておりますけれども、それは半分から救われたわけではありません。人間は生涯を通じて半分であり続けるのです。
 あなたの悩みが大変とりとめなく、説明することも難しく、それでいてあなたを深いところからとらえているのは、あなたの悩みが、あなたが半分であるという、人間の根本的な悩みであるからでしょう。幼いころ、われわれの残り半分は母親によって埋められますが、しかし、人間が大人になるためには、いつまでもお母さんに半分を埋めてもらうわけにはゆきません。かといって、社会に出ていって、だれかれかまわずつかまえて、お母さんの役をやってもらうこともできません。大人同士のつきあいというのは、お互いが半分であることに耐えつつ、あるがままの相手と出会ってゆこうと努力することにあるはずです。

 

朝日新聞1980年4月26日「わかれ道 親子相談室」
のち『自分たちよ!』(1983年、文藝春秋)に収録

セリフの中のたった一言でも、これだけの背景があって使われているからこそ、印象に残るものなのですね。
また、リアルタイムで伊丹作品にふれていらした方にとっては「ああ、このセリフはあの本のあの部分にあったあれだな」とニヤリとするポイントだったことでしょう。

さて、今月の「十三日十三時」の映画は『あげまん』(1990年)です。

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『あげまん』では、さきほど挙げた『快の打ち出の小槌』の題名になったのと同じ意味で"打ち出の小槌"という言葉がセリフに使われています。
一体どんな意味なのでしょうか......!? 芸者さんの世界のお話なので、おめでたい意味のように思えますが、実はとても切なくやるせなく、厳しさもある、名ゼリフです。

10月13日(木)13時から、ぜひお越しくださいませ。

学芸員:中野