記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2024.10.14 「アート」の秋

涼しくなって、夕暮れどきに記念館の周辺をランニングする方々をお見かけするようになりました。「スポーツの秋」到来ですね。
「芸術の秋」も到来、ということで、展覧会や音楽会へのお出かけを計画している方も多くいらっしゃることでしょう。

「最近の美術は難しくて見方が分からない」「見てもどう言っていいか分からない」と敬遠している方も少なくないことと思いますが、そんな方にこそ知っていただきたい言葉があるので、本日は伊丹十三の訳書『パパ・ユーア クレイジー』から一節をご紹介いたします。

5冊ある伊丹十三の訳書のひとつ『パパ・ユーア クレイジー』は10歳のピート君とお父さんとの日々を描いたお話で、作者はアメリカの小説家・劇作家のウイリアム・サローヤン。1957年の作品です。(伊丹十三の著書・訳書についてはこちらの年譜でどうぞ)

物語の冒頭、作家であるお父さんはいわゆる"ダメ親父"の部類に入る人物であるらしく、主人公のピート君、ピート君の妹はお母さんのもとで暮らしています。食べ盛りの息子のために食費がかかってしょうがないとお母さんが愚痴りまくったことから、ピート君はお父さんの家で過ごすことになり......

20241013_PapaYouAreCrazy.jpg1979年発行のワーク・ショップガルダ版。
このほかブロンズ新社版、新潮文庫版が発行されました。
(いずれも絶版です。ご了承ください。)

甲斐性はないけど機知と示唆に富んだお父さんの言葉と生活、それに反応するピート君の瑞々しい思索がこの作品の核なのですが、中でもお父さんによる「アート」の定義がすばらしいのです。

ある日、二人はカリフォルニアのマリブ海岸のそばにあるお父さんの家からサンフランシスコ近郊のハーフ・ムーン・ベイまで片道400マイルのドライブ旅行を決行。
教会を訪れ、海辺でアザラシを眺め、なけなしのお金でホット・ドッグを食べ、遊園地で少し遊んで、レジオン・ドヌール館(=カリフォルニア・リージョン・オブ・オナー美術館)へ。
ヨーロッパの美術や工芸品、生活用品まで眺め尽くしたあと、ピート君とお父さんは「アート」についてこんなふうに語り合います。

 僕らは外へ出て芝生の上に立ち、太陽が沈んでゆくのを眺めた。僕の父が言った。「もしアートがなかったとしたら、われわれはとっくの昔に地球の表面から消滅していたろうね」
 アートって、本当は何なんだろう。そして、人間って本当は何なんだろう、そして、世界って本当は何なんだろう。僕には全然判らない。
 海の中へ太陽が沈んでゆくのを、眺めながら、僕の父がいった。
「どの家庭にもアート用のテーブルがあって、その上にはいろんな物が一つ一つ置かれていて、その家の人たちは、その物を非常に注意深く観察したり、その物に出会ったりすることができる――そんなふうにあるべきだと思うね」
「あなたならそういうテーブルにどんな物を置くの?」
「一枚の葉、一つの貨幣、一箇のボタン、一箇の石、引き裂かれた新聞紙の小さな断片、一箇の林檎、一箇の卵、一つのすべすべした丸い小石、一輪の花、一匹の死んだ昆虫、靴の片一方」
「誰だってそういう物は見たことがあるよ」
「それは見たことはあるだろう。しかし誰も見つめた人はいない。アートとはそれなのさ。ありふれた物を、それらが今まで一度も見られたことがなかったかのごとく見つめるということなのさ(後略)」

 

『パパ・ユーア クレイジー』W.サローヤン著、伊丹十三訳(1979)

――いかがでしょう。
「目の前のものを見つめつくそうとする行為自体がアート」と言われると、「なるほど」とも思いますし、なんだかちょっと勇気が出るような気もします。

せっかくよい季節になりましたので、お出かけする日もしない日も、こんなふうに「アート」を取り入れて、心ハツラツとお過ごしくださいね。

もちろん、伊丹十三記念館へのご来館も、スタッフ一同お待ちしております。

学芸員:中野