こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。
2024.01.15 手袋
1月も中旬に差し掛かってまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
記念館では、ユキヤナギが少しずつ花をつけ始めました。ゆっくりですが、春に向かって季節が進んでいるようです。
花をつけ始めたユキヤナギ
トサミズキはまだ蕾です
少しずつ春に向かっているのを感じますが、暦はまだまだ冬。朝晩と冷え込む日が続いております。私は記念館まで自転車で通っているので、この時期は厚手の手袋とマフラーが手放せません。皆さまも温かくして、体を大事にお過ごしください。
さて、本日の記念館便りでは、冬に活躍する手袋についてのエッセイをご紹介させていただきます。
皆さまは伊丹さんのエッセイで手袋の話題だと、『ヨーロッパ退屈日記』にございます「エルメスとシャルル・ジュールダン」が思い浮かぶのではないでしょうか。手袋のイラストも印象的です。
パリへ来るたびに、わたくしは、ドライヴ用の手袋を買うことになっている。シャンゼリゼの、リドのアーケードの裏門に近い男物の店に、絶妙の手袋があるのだなあ。これは、少なくとも六双は買いたい。
(『ヨーロッパ退屈日記』より「エルメスとシャルル・ジュールダン」)
『ヨーロッパ退屈日記』より手袋のイラストページ
気に入ったものはいくつも買い、ストックをしていた伊丹さんらしいエッセイですが、本日ご紹介したいエッセイは、『ぼくの伯父さん』に載っている「手袋」です。
この手袋は、西独逸製のスキー手袋の、右の片一方である。左手はスキー場のリフトから落っことしてしまった。
アルヴィン・トフラーという学者によれば、われわれが幼年時代以来、この世から学ぶ最も大切なことの一つは「持続の予見」であるという。「持続の予見」とは何かというと、ある物事が持続するのに「大体これはこのくらいの時間がかかるだろう」という、その見当――とでもいおうか、昼や夜が持続する長さをはじめとして、食事の持続する長さ、学校の授業が持続する長さ、一日の勤務時間が持続する長さ、一人の女との恋が持続する長さ――要するに、この世でわれわれが遭遇するたいがいの事柄の持続する長さについてですね、われわれは、それが「大体これはこのくらい持続するだろう」という、おおよその見当を、いつの間にか持っているわけで、だからこそ、われわれは「それがどのくらい持続するのか」という尺度を「まだ形成していない」事柄に出喰わすと、途端に心理的な混乱に陥ってしまい、その時間をひどく長く感じてしまう。たとえば、初めて、ある場所を訪ねるような場合「行きの道は果てしなく遠く感じられたが、帰りは、これが同じ道かと思うくらい呆気なく思われた」などというのはそれであります。
『ぼくの伯父さん』より手袋のイラストページ
ええと――なぜこんな話をするかというと、この手袋の片一方をなくした時、ちょうどその事を考えていたからなのです。
私はその時、故障して停まってしまったリフトに乗って、深い深い谷の上にぶら下がり、動かぬリフトの上では、なぜ時間がいつもよりゆっくり過ぎるのか、という命題について考えていた。リフトが故障してから、まだせいぜい一時間ぐらいしか経っていなかったでしょうが、リフトの上の私には、それはほとんど小規模な永遠とでもいうべき苦痛であった。私の心の中の、いかなる「持続の予見」も役に立たなかった。一体あとどのくらいの時間、この吹きっさらしの空中に、逃れる術もなく放置されるのか、根拠のあるいかなる「持続の予見」もできはしなかった。
私が手袋を落っことしたのは、ポケットに残っていた三本の煙草の、最後の一本を取り出そうとして左手の手袋を脱いだ時であった。
アッ、と思った時、すでに手袋は空中に浮かんでいた。
谷底まで百メートル以上あったろうか。手袋はゆっくりと落下して、音もなく谷底の雪の上に横たわった。
(中略)
煙草を吸い終わらぬうちに、モーターの唸る音が聞こえたかと思うとガタンとリフトが動き始めた。
動いてみれば、何のことは無い、今までの、いつ果てるとも知れぬ苦痛など嘘のように消えて、時間はまた流れ始めていた。
私が、手袋の、残った一方を捨てかねているのは、別に感傷的な理由からではない。ただこの手袋がひどく高かったからである。この手袋を買ったのは、もう十五年も昔のことになろうか。確か一万五千円であった。当時の私の給料が三万円くらいだったから、私はいわば決死の覚悟でこの手袋を買ったのである。それほど私はこの手袋のデザインを気に入っていた。
それにしても、あれから十五年か!
考えてみれば、十五年前には時間はのろのろと、たゆたうように懶く過ぎていたように思う。そのうち、やがて一年一年が次第に早く過ぎ始め、二十五歳を過ぎてからは、三年、五年が一と塊りになって走り過ぎるようになってしまった。今に十年、二十年が一と塊り、という時期がくるのであろう。一体、人生を長く暮らす方法はあるのか、ないのか? 停まったリフトの上ででも暮らしてみるか......
現在私はこの手袋を、熱湯を入れると、どうしても開かなくなる癖のある、古い魔法瓶の蓋を開けるのに使っている。それからまた、猫が頑固にくわえて放さない食べ物を取り上げる時にも使っている。
私と猫と魔法瓶と手袋の中では、猫が一番新しく、今年で九歳になった。
(『ぼくの伯父さん』より「手袋」)
伊丹さんは気に入ったら同じものをいくつも買ってストックをしていた方であると同時に、気に入ったものを長く愛用する方でもありました。当時のお給料の半分で買った手袋とのことなので、おいそれと捨てられなかったのだろうと考えられます。しかし、片一方になっても魔法瓶の蓋を開けたり、猫が頑固にくわえたままの食べ物を取りあげる時に使ったりと、ずっと手袋を"愛用"していたことが伺えます。気に入ったものは修繕して使い続けていた伊丹さんの人となりが出ているエッセイのひとつです。
『ぼくの伯父さん』と『ヨーロッパ退屈日記』
ちなみに、なぜこちらのエッセイを本日ご紹介させていただいたかと申しますと、手袋のエッセイであることに加え、「一年一年が次第に早く過ぎ始め、二十五歳を過ぎてからは、三年、五年が一と塊りになって走り過ぎるようになってしまった。」という一説に強い共感を抱いたからです。
2023年末、1年が過ぎるのってこんなに早いのかとしきりに思っていたのですが、2024年の1月もあっという間に中旬。年を重ねるごとに1年が短くなっている気がしてならず、年末年始は特にそんなことばかり考えておりました。
『ぼくの伯父さん』を読み返し、伊丹さんもそんな風に感じていたんだなぁと親近感を覚えました。
本日ご紹介させていただきましたエッセイが載っている『ヨーロッパ退屈日記』と『ぼくの伯父さん』は記念館のショップ、オンラインショップで取り扱っております。まだご覧になっていない方はぜひこの機会にご覧ください。
学芸員:橘
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