こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。
2019.11.18 池内岳彦(23歳)の11月
企画展「おじさんのススメ シェアの達人・伊丹十三から若い人たちへ」に、こんな資料をお出ししています。
『知性』という雑誌の1956年11月号です。今からちょうど63年前のものですね。
それで、目次ページをこのように広げて展示することで何をご覧いただきたいのかと言いますと、若かりし頃の伊丹十三の仕事なのです。
何が、って......ええと、いえいえ、この雑誌に執筆していた、というようなことではなくて、この目次そのものと申しますか、デザインがそうなのです。ええ、伊丹さん、デザイナーだったんです。
初めてのエッセイ集『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)が新装版で出たときのあとがきには作家の山口瞳さん(1926-95)のお世話で出版できた経緯が書かれていて、山口さんと知り合ったきっかけである『知性』について、こんな一節があります。
当時山口さんは河出書房から出ていた「知性」という雑誌の編集部に勤めるサラリーマンであった。そうして私は駆け出しの商業デザイナーであった。いや、デザイナーなどという言葉は当時はなかった。われわれは版下屋とか書き文字屋とか図案家などと呼ばれる冴えない種類の人間であった。つまり、私は山口さんにとっては出入りの職人であったのである。(中略)
職人であった私に与えられる仕事は、主に、車内吊りのポスターと、目次のデザインであった。ジェームズ・ディーンや石原慎太郎の年であった。
伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(新装版、1974年・文藝春秋)
「B6判のためのあとがき」より
ご来館の際は、この目次の左下の部分をよーくご覧いただきたいのですが、「目次 池内岳彦」とあって、戸籍上の本名の「義弘」のほうでなく、「岳彦」の名で仕事していたことが分かります。
※注:伊丹さんが「伊丹一三」になったのは1960年の俳優デビュー時で、67年に「十三」に改名。
このクレジットのある『知性』を図書館で探して数えてみましたら、1956年の8月から12月までの5号に池内岳彦の名が掲載されていました。(まさに、『理由なき反抗』『ジャイアンツ』の日本公開年で、『太陽の季節』『狂った果実』の刊行年ですね。)
季節感のあるモチーフを版画風に描いたカット、書き文字と活字を案配した目次から、23歳の岳彦青年がコリコリと仕事に打ち込んでいたことを想像していただけると思います。
常設展のほうには、後年(俳優になってから)手がけたブックデザインやイラスト原画、それから、高校時代のクラス誌で担当した目次なども展示しています。
伊丹十三が造形表現を得意としていたことにビックリなさるお客様もたくさんいらっしゃいますが、展示室ではいろいろな種類・年代のものを見比べていただけるので、まずは順路のとおりにご覧いただいて、それから年代順にたどりなおしてみる、というのも面白いかもしれません。
行ったり来たりも再入場も大歓迎の記念館でございます。ぜひ、ゆっくりとお楽しみください。
父・伊丹万作を紹介するコーナーの「手作り芭蕉かるた」は
冬の句のものに入れ替えました。
皆様お風邪などお召しになりませんよう!
学芸員:中野
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