記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2018.10.08 橋本忍さんと伊丹万作

7月、橋本忍さんがご逝去されました。

幼少の頃、脚本家や監督を意識して見るほどの年齢でもなく、テレビの映画番組を茶の間で眺めていたような頃から、橋本さんのシナリオから生まれた映画にはビックリさせられてきました。「そうだったのか!」「そうきたか!」と。

 
日本映画界を支えた名脚本家としての業績の数々を伝えるご訃報に接して、『羅生門』『生きる』『七人の侍』『切腹』『上意討ち』『砂の器』『八甲田山』『八つ墓村』などなど、息を詰めて夢中で見たこと、二度目にも三度目にもワクワクしながら見たことが思い出されました。 それらの作品を「また見たいなぁ」と思いながら、どれから見るかを決めてしまうのが何となくためらわれて、結局、追悼鑑賞はまだできずにいます。  


映画はこれと決められないけど、本ならば少しずつ読んでもいいし、と『複眼の映像 ――私と黒澤明』(単行本 2006 年文藝春秋 / 文庫本 2010 年文春文庫)を久しぶりに手に取りました。黒澤明監督との共作の回想を中心とした、橋本さんの自伝です。

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この自伝がまた、シナリオに負けず劣らず「そうだったのか!」「そうきたか!」の連続で、読み返してみてあらためて引き込まれました。初めて読んだときに比べて映画に関する自分の知識がいくぶん増えたからか、驚きが倍増した感さえあります。

 
ご逝去のニュースや記事でも多くふれられていたとおり、デビュー前の橋本さんには、会社勤めをしながら伊丹万作に師事した修行時代がありました。「伊丹万作ただ一人の脚本の弟子」とも言われています。  


『複眼の映像』は、脚本家を夢見たこともなかった肺病の青年が伊丹万作に師事することになったのはなぜか、というお話から始まって、万作の遺訓を受けて初めて取り組んだ原作もののシナリオ、それが黒澤明の目に留まることになった経緯、『羅生門』を上手く書き上げられなかった悔恨、『生きる』からの本格的な共同執筆――と、序盤からすごい展開が続くのですが、構想の時、失敗してしまった時、次の仕事にかかる時、伊丹万作の教えを思い返し、その意味に気付いた、という記述が何度も出てきます。  


読み進めていくと、橋本さんが「あの言葉はそういうことだったのか!」とハッとするのと、「こんなふうに成長しながら書いていった作品だったのか!」と自分が深々と納得するのが重なって、精巧なサスペンスの謎解きにくぎづけになっているかのような気持ちになりました。   


mansaku_essayshu.jpg伊丹万作のシナリオ論は、伊丹万作全集のほか
伊丹万作エッセイ集』 (ちくま学芸文庫)でも
お読みいただけます。
 

橋本さんは、ご著書だけでなく、インタビューなどのお話でも、師である伊丹万作について語り続けてくださいました。今、伊丹万作の名と作品が多くの人の記憶に残っていることに橋本さんのおかげの大きさを感じるとともに、万作を語るたびに、弟子である橋本さんのことも語りついでいきたいと思っています。

 
亡くなる直前まで旺盛に執筆を続けていらっしゃったとのことで、もう橋本さんの新しい作品に出会えないことは残念でなりませんが、伊丹万作の教えを大切に、たくさんの映画人との仕事で素晴らしい作品を残してくださったことへのお礼を、何よりもお伝えしたいと思います。ありがとうございました。  

学芸員:中野