こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。
2011.01.17 昭和2年のお正月
え?、2011年も残すところ24分の23となりました。ナンチャッテ。いえ、冗談ではなく残りの「23」もあっという間でしょうね。一年の計は元旦にあり、などと言いますが、みなさんは今年の計画・目標はお立てになりましたか?(ワタクシは立てていませんが・・・)新年を迎えた清々しい気分で決意を日記につづったりなさったでしょうか。(ワタクシは日記をつけませんが・・・)
今から84年前、昭和2年のお正月にこんな日記をしたためた青年がありました。
今年はいかな年で有らふ。
どんな事が起り、どんな運命が俟つて居るのか。
自分ももふ廿八(28)に成つた。
丗(30)と言へば大変先きの事の様に思つて居たが
つい目の先きへ来て仕舞つた。
丗までには相当の仕事を支度(した)いと望んで居たが
何事も出来ないですんで仕舞い相だ。
丗に恥しい。
併し後悔は馬鹿々々しい。是から後を出来る丈やる他は無い。
本日は御正月也。
大人になりきる一歩手前で迷っている、そんな青年らしさにみちた日記ですね。
日記の主は池内義豊(よしとよ)。
後の伊丹万作、すなわち伊丹十三のお父さんです。
この日記を書いた2ヶ月前の大正15年11月、東京で食い詰めた義豊は、郷里の松山に帰り、繁華街である三番町におでん屋・瓢太郎(ひょうたろう)を仲間と開店したばかりでした。
このおでん屋、初めのうちは繁盛したそうですが、年が明けて昭和2年には次第に経営が悪化(材料に凝ってお金をかけすぎたため、などと言われております)、夏には閉店。義豊は大借金を抱え、友人宅で居候生活を送ることになります。
「丗までには相当の仕事を支度い」、「丗に恥しい」。そんな思いで生きていた義豊青年にとって、浪々の日々がどんなにつらいものであったかは察するに余りありますが、「是から後を出来る丈やる他は無い!」ととにもかくにも行動した彼、松山中学の同級生・伊藤大輔を頼って上洛、映画監督となって活躍していた伊藤の紹介で映画界に身を投じることになったのでありました—
つまり、彼がその年頭にこの日記を書いた昭和2年は、まさしく運命の年であったのです。
映画監督・脚本家「伊丹万作」となってからの彼の活躍は多くの方の知る通り。
『花火』、『國士無双』、『赤西蠣太』などを監督して風刺の効いた知的な時代劇で映画界に新風を吹き込み、さらには『無法松の一生』、『手をつなぐ子等』といった名作シナリオ、「戦争責任者の問題」など数々の名文も残しました。
池内義豊がどんな青春時代を過ごし、どのようにして伊丹万作となって活躍したか、そして、父として芸術家としての伊丹万作を伊丹十三がどのように捉えていたかを紹介している企画展、ただ今開催中でございます。
ぜひご覧くださいませ。
さて、今年はどんな年になるでしょう。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
写真上:わが故郷のお雑煮です。モチは四角く心は丸く。(ちょっと食べてしまった後です、スミマセン) / 写真下:日記帳展示中です。
学芸員:中野靖子
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