記念館便り ― 記念館からみなさまへ

記念館便り

こちらでは記念館の最新の情報や近況、そして学芸員やスタッフによる日々のちょっとした出来事など、あまり形を決めずに様々な事を掲載していきます。

2013.10.28 「よもだ」という宿題

10月20日、天野祐吉さんがご逝去されました。

物心ついたときから、天野さんはときどき現れてはチョットいいことを教えてくれて、ニヤッとしてサッと去っていく「愉快なオジサン」として、新聞やテレビの中にいてくださいました。
松山では松山市立子規記念博物館の館長・名誉館長をお勤めでしたので、そんな愉快なオジサンがお隣のお家にいるような気がして、勝手に嬉しく頼もしく思っておりました。
ですから、今、とっても淋しいです。

毎年春に東京で開催している伊丹十三賞の贈呈式にはご夫妻でお越しくださいましたし、子規記念博物館友の会の名物イベント「新・道後寄席」に宮本館長を招いて対談してくださったこともありました。

amanosan_kancho.jpg 2009年11月15日、子規記念博物館の「新・道後寄席 第三夜」で。
催しのタイトル、「ああ言えばこう言う」はケッサクでした。

「伊丹十三記念館は、遊びに行ったような感じ、伊丹さんの頭の中に入った感じがします。」「博物館や記念館は、『学びの場』であるよりは『遊びの場』であることが大事だと思う。お互い(子規博と伊丹十三記念館)、遊ぶ手本を見せる場を提供して、松山を面白くしていきましょう」というお言葉を頂戴してから、もう4年が経っていたんですね......

天野さんのお話で忘れられないのが「"面白い"っていうことばは、文字通り、"面"が"白"くなる、顔がほんとうにパッと明るくなるときのことをあらわしてるんですよ。腹を抱えてゲラゲラ笑うようなことを言ってるんじゃないんです」。

トークで聞いたのか、ラジオやテレビで聞いたのか......記憶が定かでなくて申し訳ありません(館長との道後寄席トークだったらさらにすみません!)が、これを聞いたとき、「頭の中の回路がつながって"なるほど!"となったときの、おデコのあたりに電球があって、それがピカッとつくような感覚」には覚えがあるな、と思いました。
それ以来、"なるほど!"と思うたびに(ナマクラな私の脳ではそう頻繁に起こることではありませんが......)、天野さんのこのお話を思い出して、「今、ワタシのおデコ、光ったかな~、光ったにちがいないな~」と嬉しくなってしまいます。

こんなふうに、天野さんは「本来は」「もともとの意味は」というところからいろいろなことを教えてくださる方でしたが、これだけはいつかぜひ教えを乞いたかった、と残念に思っていることがあります。

それは「よもだ」といって、天野さんが「松山人の気質をもっともうまくあらわしている」と高く評価していらっしゃった、ある気風のことです。

日常的には「ほんまにもう、よもだぎり言いよるんじゃから~」というようなフレーズならば在住歴5年半の私でも耳にしたことがあって、「ふざけたことばっかり言う困った人ねぇ」という意味だと解釈しています。でも、そういう場合の「よもだ」が意味する「おふざけ」とか「無責任でいいかげんな物言いの態度」は、天野さんによれば「よもだ」の本質ではないのだそうです。
町立久万美術館『生誕100年重松鶴之助よもだの想像力』展の図録に寄せられた「よもだの神々」に、「よもだ」という言葉がぴったりなのは、正岡子規、伊丹万作、伊丹十三、伊藤大輔、重松鶴之助のような人であって、その人たちに共通するのは「反骨の精神をおとぼけのオブラートでつつんだような気質」だと書いておられました。

万作と十三を挙げてくださっているからには「よもだ」とは何であるかを理解しなくては!と思い、折にふれ考えてはみるものの、このことで私のおデコが光ったことはまだありません。
なぜ松山人が「反骨」の精神を持たなくてはならなかったのか、そして、なぜそれを「オブラート」に包む必要があったのか、歴史的背景をうんと学ばなくては分からないということもあるでしょうが、一番の理由は、私自身が生ける「よもだ」の実例を見たことがないからかもしれません。(「よもだの神々」で、今の松山ではよもだの精神が失われつつある、と嘆いていらっしゃったのが10年前ですから、その状況は今はもっと進行しているのでしょうか。)
「地縁血縁が密接な土地柄ゆえの安心感と閉塞感から発達した、人間関係上の換気装置というべき処世術が元なのではないかな...あるときはリフレッシュであり、あるときはサービスであり...というような...感じ...ではないかな~」などと、ボンヤリ考え始めた頃に接したご訃報でした。

「天野さん、『よもだ』って何ですか?」とそのままズバリ質問しないまでも、よもだの生きた実例が天野さんから飛び出すところを間近に拝見してみたかったな、と、そんなことを考えております。

ご遺族のみなさまと子規記念博物館のみなさまにお悔やみを申しあげつつ、天野さんのご冥福をお祈りしつつ、弊館へのご厚情にお礼申しあげつつ、天野さんからいただいた宿題として「よもだ」について考え続けていきたいと思います。

伊丹さんと同じ時代の空気を吸った方がどんどんいらっしゃらなくなるのは淋しいし心細い気持ちもいたしますが、ここはお礼でしめくくりましょう。

天野さん、わたしたちをたくさん"面白"がらせてくださって、ありがとうございました。

award03_amanosan.jpg第3回伊丹十三賞贈呈式で。
左から、元『スイングジャーナル』編集長の岩浪洋三さん、宮本館長、天野さん、奥様。
岩浪さんも昨年亡くなられましたが、岩浪さん・天野さん・伊丹さんは
学生時代からの古いお友だちです。

学芸員:中野