伊丹十三という人物 ― 父、伊丹万作

父親・伊丹万作だ々ニ残サレタ命ガ / ドンナニ短カクテモ / ソレヲデキルダケ立派ニ磨キ上ゲ / ソシテ立派ニ死ノウデハナイカ / 昔 子供ノトキニアコガレタ / 偉イ人ニナルトイウコトヲ / 今コソ本当ノ意味デ / ヤリトゲナクテハナラナイノダ / 父ハオマエニ負ケナイヨウニ / シツカリヤルカラ / オマエモ父ニ負ケナイヨウニ / シツカリオヤリ 岳彦
(『子供ノ誕生日ニ』より)

プロフィール

伊丹十三の父、伊丹万作(池内義豊)は1900年、松山市生まれ。
雑誌の挿絵を描きながら洋画家を目指した青年時代を経て、1928年に映画界入り。当時の暗くニヒルな時代劇の流行に反して、知的で明るく、笑いの背後に鋭い風刺を込めた脚本監督作品を次々と発表。肺結核に倒れ療養生活に入ってからも病床でシナリオや評論を執筆し続けましたが、1946年、8年にわたる病臥生活の末、死去。
監督作品22本、脚本作品34本。著作集3冊。日本映画の黄金時代に映画人となり、戦前戦中の厳しい思想統制や戦後の占領軍による検閲と闘いながら、数々の名作を生み出しました。

企画展「父と子」(2010年12月-2013年12月開催)の概要ページもぜひご覧ください。

年表

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1900年(明治33年)
0歳

松山市に生まれる

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1月2日、父・池内義行、母・キクヨの長男として松山市湊町に生まれる。本名・池内義豊(よしとよ)。

右が義豊少年
1906(明治39)年
妹・春子と

1912年(明治45年)
12歳

松山中学校に入学

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愛媛県立松山中学校(現・松山東高校)に入学。同窓の友人に、伊藤大輔(映画監督)、中村草田男(俳人)、重松鶴之助(画家)ら。文学や美術を愛好し、仲間たちと回覧雑誌『楽天』を作る。

松山中学校時代
1917(大正6)年
松山中学の仲間たちと卒業記念撮影

1917年(大正6年)
17歳

画家を目指し上京

松山中学校を卒業。美術の道を志望するが父に反対され、両親が移り住んでいた樺太へ渡る。約半年滞在した後、上京し鉄道院に勤務。

 

1918年(大正7年)
18歳

挿絵画家になる

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鉄道院を退職、独学で洋画を研究しながら、都夜坊・豊坊・豊平・池内愚美などの名で少年少女雑誌の挿絵を描きはじめ、次第に人気を博する。

挿絵画家の頃
1921年(大正10)年
『少年世界』6月号 表紙

1925年(大正14年)
25歳

『朱欒』

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中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『朱欒』を作り、絵画の他、随筆・評論・戯曲・小説なども発表。仲間たちと作品を批評しあった。

朱欒 表紙
1925(大正14)年
『朱欒』第3号 扉絵

1926年(大正15年)
26歳

おでん屋を開店

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芸術性を追求するうち挿絵の仕事が減り、窮乏して帰郷。友人・重松鶴之助、白川晴一と松山市三番町におでん屋・瓢太郎を開く。

瓢太郎 外観
1926(大正15)年
瓢太郎 外観

1927年(昭和2年)
27歳

映画界へ

瓢太郎の経営に失敗して借金を抱える。
映画監督となっていた伊藤大輔を頼って上洛し、伊藤の勧めで映画のシナリオを書きはじめる。
知人夫妻を描いた油彩「市河夫妻之像」が岸田劉生の目に留まり評価される。中村草田男により第1回大調和美術展に搬入され入選するが、画家の道は断念。

 

1928年(昭和3年)
28歳

『天下太平記』
『仇討流転』

伊藤大輔の推薦で脚本家兼助監督として片岡千恵蔵プロダクションの設立に参加。
千恵プロ第1回作品『天下太平記』(監督・稲垣浩)で脚本家デビュー。ペンネームを「伊丹万作」とする。『仇討流転』で監督デビュー。

 

1930年(昭和5年)
30歳

結婚

夭逝した松山中学の親友・野田実の妹・野田キミと結婚。

 

1931年(昭和6年)
31歳

『花火』

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脚本監督作品『花火』公開。

『花火』っていうのはね、非常に臆病な侍の話なの。で、臆病なだけじゃなくて彼はね、父親がお友達のお侍さんに殺されちゃって、仇討ちをしなきゃいけないという立場に追い込まれるわけ。
非常に気が弱くて、臆病で、しかも仇討ちをしなければならない。期待される侍像というものと、自分の内実とのギャップに悩んでいく。そういう侍が主人公です。

(伊丹十三談:伊丹万作五十回忌のスピーチより・1995年)

1932年(昭和7年)
32歳

『國士無双』

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脚本監督作品『國士無双』公開。

伊勢伊勢守という人物がいて、ホンモノとニセモノのふたつに分裂して出現するわけです。ホンモノは剣道の家元で社会通念にがんじがらめになってる。ニセモノの方っていうのは全く常識にとらわれないで自分自身で生きている自由人。ニセモノの生き方の方が明らかに人間としてホンモノなんです。
映画のラストでは、自由人であるところのニセモノの方が恋を成就して、恋人と言葉もなく心を通わせる。そしてふたりが座ったままでずーっと時間が過ぎていき、雪が降ってきて二人が雪だるまになってしまう。
これは、作者がそういう形で自由を謳歌してみたものの、その自由というものは今の社会ではおとぎ話に過ぎない、という風なことを、恋人たちが雪だるまになって座っているというかたちで表現しているようにも思えるのね。

(伊丹十三談:伊丹万作五十回忌のスピーチより・1995年)

 

『闇討渡世』

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脚本監督作品『闇討渡世』のフィルムが検閲の鋏禍に見舞われ、大幅にカットされる。

主人公の平手造酒という人は、剣術士とやくざ者のちょうど中間のような、用心棒のような人です。
この人はまあ、生活のために、一時権力の手先となってですね、人斬りマシーンのような役割を演じるわけなんだけども、のちに翻然として、悟ってですね、彼本来の生き方に戻っていく。しかし、その時すでに遅くして――えー結核だね、たぶん――病魔が彼の体を蝕んで、余命いくばくもない。
で、ラストシーンでは、田んぼの中に転がってる御用提灯を踏みつけながら、平手造酒が歩いていく。その先に、夜が明け放たれてくるというラストなんだけども、必ずしも行く手に希望が待ち受けているとは思えない、そういうラストシーンに、伊丹万作の、若き日の伊丹万作の魂の叫びが見えるような気がしますね。

(伊丹十三談:伊丹万作五十回忌のスピーチより・1995年)

1933年(昭和8年)
33歳

長男・十三誕生

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5月、長男・岳彦(本名・義弘、のちの伊丹十三)誕生。

親子の写真
1934(昭和9)年頃

1934年(昭和9年)
34歳

『武道大鑑』

『武道大鑑』公開(キネマ旬報ベスト・テン第4位)。千恵プロ退社、トーキー専門監督として新興キネマに入社。

 

1935年(昭和10年)
35歳

『忠次売出す』

自身初のトーキー作品『忠次売出す』公開(キネマ旬報ベスト・テン第4位)。

 

1936年(昭和11年)
36歳

『赤西蠣太』

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『新しき土』

2月、長女・ゆかり生まれる。
脚本監督作品『赤西蠣太』公開(キネマ旬報ベスト・テン第5位)。J・Oスタジオ(のちの東宝)に入社。『新しき土』をドイツのアーノルド・ファンクと協同で脚本・監督。

この映画は時代劇ですが、日本の表現者たちにとって時代劇というのは、表現の自由がおびやかされている時に、時の権力に逆らって自分のいいたいことをいうための伝統的なカムフラージュの方法だったわけで<赤西蠣太>もその一つだったと思うのね。
当時の日本は世界から孤立して急速に軍部独裁への道を歩み始め、個人の自由の前に大きな暗雲が立ちこめてきた、そういう時代でしょう。この映画は作家の置かれていたそのような大状況を反映していると思う。
暗愚な君主、それを操る邪悪な力、大きな権力の前に心ならずも沈黙と服従の道を選ばざるをえない大多数、そして、このような時代の趨勢と戦うために命を投げうつ少数の名もない人々、という<赤西蠣太>の設定は、そのまま時代批判になっていると思うし、そこに伊丹万作という作家のやむにやまれぬものを見る気がしますね。

(伊丹十三談:伊丹万作五十回忌のスピーチより・1995年)

1937年(昭和12年)
37歳

著作集『影画雑記』

初めての著作集『影画雑記』(第一芸文社)出版。

 

1938年(昭和13年)
38歳

『巨人伝』
病臥

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脚本監督作品『巨人伝』公開。最後の監督作品となる。7月以降、病臥する。

万作さんは私が五才の頃結核になってしまって、以後八年間、昭和二十一年に四十六歳で亡くなるまで寝たきりの病人になってしまったんですね。従って私の知ってる万作さんはベッドの中で物を書く、おそろしく気むづかしい人でした。
当時戦時中で食べる物もろくろくない中で、不治の病である結核に体を蝕まれながら物を書き、生活費を稼ぎ、自己を表現し、軍部の検閲と戦い、子供の教育もやらなきゃいかん、というのだからこりゃ大変だったろうと思います。

(日活LDライナー「伊丹十三監督に聞く『父・伊丹万作と赤西蠣太』」より・1991年)

1941年(昭和16年)
41 歳

 

日活に入社し(前年東宝を退社)、病床で『無法松の一生』のシナリオを執筆。

 

1942年(昭和17年)
42歳

『不惜身命』

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日活・新興キネマ・大都が合併して創立された大日本映画製作株式会社(大映)の所属となる。
『不惜身命』のシナリオが情報局の事前脚本審査で却下。

彼が生きていた時代というのは生きることが非常に辛い時代だったわけです。その頃はちょうど日本が戦争に突入していく全体主義的な傾向で、軍国主義の国家を作ろうとしていた時代だった。
本当に自分に誠実な人が、そういう時代に生きていこうとすると、まず権力というものあるいは権力に盲従する日本人というものを批判しなきゃいけなくなる。当時の情勢としては非常に難しいことをやらなきゃいけないという立場に自分から身を置くことになるんですね。 で、彼の作品を一貫して流れているのは「全体主義的な国家や社会が、個人の自由とか権利とか幸せとか尊厳とかってものを権力でもって踏みにじろうとする時、個人はいかにして、自分に誠実に生きることができるだろうか」というテーマだと思うんですよ。

(伊丹十三談:伊丹万作五十回忌のスピーチより・1995年)

1943年(昭和18年)
43歳

著作集『静臥雑記』
『無法松の一生』

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『木綿太平記』

『静臥雑記』(国際情報出版部)出版。
脚本作品『無法松の一生』(監督・稲垣浩)公開。
『木綿太平記』のシナリオが情報局の事前脚本審査で却下。

私はこの映画を見て、いつしか坐り直していた。突然私は悟ったのである。「この映画は父の私に宛てた手紙であったのだ!」それがいきなり判ってしまった。 父は私が三歳の頃結核に斃れ、以来、敗戦直後、死ぬまで病床にあった。父の最大の心残りは、息子の私であったろうと、今にして思う。自ら育てようにも、結核は伝染病である。子供を近づけることすら自制せねばならぬ。かといって自ら遠ざかるうち、子供は、あらまほしき状態から次第に逸脱してゆく。このじれったさはどんなものであったろう。
その父が、思いのすべてを托せる物語に出会った。「無法松の一生」である。
ひとりの軍人が病死し、あとに美しい未亡人と幼い息子が残される。息子は、気が弱い。意志が弱い。グズである。ハキハキしない。注意力散漫である。
この息子に、男らしさを、勇気を、意志の強さを、喧嘩の仕方を教えてくれるのが松五郎であった。松五郎こそ、父の私に対する夢でなくしてなんであったろう。

(『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』より・1979年)

1944年(昭和19年)
44歳

 

『手をつなぐ子等』のシナリオを執筆。

 

1945年(昭和20年)
45歳

『東海道膝栗毛』

『東海道膝栗毛』のシナリオを完成するも、連合軍総司令部民間情報教育局(CIE)の検閲により映画化不許可となる。

 

1946年(昭和21年)
46歳

死去
著作集『静臥後記』

9月21日、京都市の自宅で死去。

 

1948年(昭和23年)

『手をつなぐ子等』

脚本作品『手をつなぐ子等』(監督・稲垣浩)公開

 

1958年(昭和33年)

『無法松の一生』

稲垣浩監督によって『無法松の一生』再映画化。ヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。

 

1961年(昭和36年)

全集刊行

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『伊丹万作全集』全3巻(筑摩書房)刊行。

伊丹万作全集
タイトル文字のレタリングは伊丹十三によるもの