伊丹十三賞 ― 第1回受賞記念講演会 採録

「糸井重里氏によるトークショー」(4)

2009年10月14日 / 松山市総合コミニュティセンター キャメリアホール
講演者 : 糸井重里氏(コピーライター / 『ほぼ日刊イトイ新聞』編集長)
聞き手 : 松家仁之氏(新潮社『考える人』、『芸術新潮』編集長)

【かつての「生きる理由」】
糸井 まぁ、今でこそ、この10年間、ぼくの後ろを探偵がずっとつけてても、誰にもなんにも恥ずかしくない人生を送ってるわたくしですが、えー、国会議員でもなれますよ、今から。
松家 (笑)
糸井 あのー、当時は、後ろつけてこられると困るような生き方してたんですよ。
松家 あ、この80年代前半は。
糸井 わりに、はい。
ですから、どこに住んでるかさえ明かしたくない、みたいな。「ここから見られたら困るな」っていう時間がもういっぱいあるんですよ。生意気ざかりっていうふうに思うんですけども、そんなことができてたってことはまず、今にくらべてものすごいヒマだったってことなんですね。
世の中から見たら、「あの人売れっ子だったね」っていう人って、時間を売ってる人以外でものを作ってる人とかだったら、ぼくは、なんかいちばん忙しく見えてるときって、案外実は時間あるんじゃないかなと思いますね。
たとえば、きっとそうだと思うんですけど、キムタクとかヒマですよ。

(場内ざわつく)
糸井 たぶん。
つまり、お笑い芸人で、いっぱい出てなきゃなんない人のほうが木村拓哉よりずっと忙しいですよ。
ま、ドラマに入っちゃうとどう、とかってのはありますけど、それが終わってからもあれしてこれしてってのを、もうあれくらい売れると断れますから。そうすると、何日から何日まで全然空いてるよ、とかってあると思うんですよ。
もっと言えば、松本人志とかもっとヒマだと思います。
それは、時間の拘束っていう意味でヒマ、ですけど、人には寝てるように見えても、何か考えてなきゃなんないってことはあるかもしれません。
だから、それは計算に入れないにしても、当時の自分ってのは、自分では疾走感があったとか、その、週刊誌的に言えば「疾走」する…「時代を疾走するコピーライター」ですから、「顔に風が当たる」とか言ってますけど、冗談じゃないですよ、今にくらべたら、ほーんと楽ですよ。一所懸命集中してやればいいんですから。

松家 その時代には、「このまま自分はこうやってコピーを書いて行くんだろうなぁ」っていうのを、ぼんやりと思ってらしたんですか?
糸井 なんにも思ってなかったです。
特に不安もなかったですけども、どう言ったらいいかなぁ…自分を生きてなかったんでしょうね、人の都合に合わせて生きてますから。「締め切り」って言葉が自分を生かしてくれますよね。
「明日これがある」、「大事な仕事です」と、「休んじゃ困りますよね」と。
そういうものがずーっと続けてある、1日に2本ある3本ある、1週間に何本あるっていうことは、生きる理由になるじゃないですか。それは、自分を持ってない自分にとっては、助かるんですよ。
家庭教師がついてくれて、「じゃあ、3時半になったらおやつにするから、それまでこの練習問題を10問解こうな」って言ってくれてるっていうのは、「自分」はいないですよね? でも、その時間は「よし! やるぞ!」っていう、ニンジンぶら下げてる馬と同じですから、走れるんですよね。それはずっとあるわけですから、苦しくはないんですね。
だけど、もうちょっと頭のいい人だったら、「お前いつまでもそういうこと言ってんじゃねぇよ」って言うもうひとりの自分がいたんでしょうけど、ぼくはそれは幸いか不幸にかいなかったんで、楽しくやってれば何とかなるんじゃないか、っていうような、それをみうらじゅんとかは見てたわけですよ。で、「それいいなぁ」と思ってたわけです。で、それはずいぶん長く続きますよね。

講演会の様子

【ゲーム製作】
松家 ちょうどこの頃って新潮文庫のコピーなんかも書いてくださったりして、80年代の半ばぐらいって、糸井さんとは、なんだかんだと、いろいろすれ違う機会が多かったんですけど、90年代にはいってくると、たまーに会うぐらいになって、だんだんと、こう、間遠になっていって、別に嫌いになったとかじゃなくて(笑)、あいかわらず遠くから見ていたんですけど、そうしたら、気が付いたら『ほぼ日』が始まっていた…
その前に実はゲームを作ってらっしゃる糸井さんっていうのも遠目に見てたんですけど。

糸井 『MOTHER』のシリーズですね。
松家 はい。ぼくは、好き嫌いとかそういうんじゃなくて、たまたまゲームをやらない人間なので、それは見てないんですけどね。だからちょっとゲームのことは、今日は上手くおうかがいできないんですけど、その後で、『ほぼ日』を始められて、糸井さんこういうこと始めたんだ、今、糸井さんこういうものに何かを見出してるんだなとは感じていたんですが、実は始まった頃はそんなに一所懸命は見てなかったんですね。
でも、気が付いたらそれがどんどんどんどん、なんか…大変なことになっていって。

糸井 いやいや。
松家 周りの人間がいっぱい『ほぼ日』を見てるっていうことになってきて、ぼくも遅まきながら見るようになったんですけど、その、98年に『ほぼ日』をゼロからスタートしたときっていうのは、どういう気持ちで始められたんでしょうか?
糸井 う〜〜〜ん…その…走ってた…何か要請があるからそれにあわせて走ってた時代から、その98年までの間って、結構実は長いんですよ。ものすごく長いんです。
その間にそのゲームがあって、普段やってる仕事と、ちょっと毛色が違うんですけど、ものを考えて人に喜んでもらうっていう意味では同じだった、っていうこともありますし、それからその…広告だの、その、何かちょっとしたものを考えたり書いたりするっていうのではない刺激がやっぱ欲しかったんで、何だろうね…ゲームの仕事を始めたときは、「オレ、これ、やりたいかも」って思わせられたんですね。
つまり、「このままじゃオレ、退屈しちゃって」…生意気に聞こえるんですけど、「退屈しちゃって」ってのは実は自分のせいなんですよ。
つまり、はばたく理由がよく分んなくなっちゃった…生意気な言い方ですけどね。
あのー、何だろう、楽しいとか面白いとかっていう気持ちがなくって動いてるってのはやっぱり、全部どんどんダメにしていくんで、そうなる前に、「難しいぞ!」ってことをやらなきゃいけないんですよ、ぼくは。
で、「こりゃあ難しいぞ!」ってのをやりたかったのがゲームで、ま、七転八倒してやりました。で、それなりにぼくとしてはよかった。

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